いじめをどうしてやれるのかについて

いじめをどうしてやれるのかについて

記事
コラム
こんにちは。今年の夏は比較的涼しいと体感した夏でした、それでも結構暑いですけどね

今日はいつもと趣向を変えて心の内側の話ではなく外側で起きる問題について語りたいなと思います

今日は「いじめを行えるわけ」について語ろうと思います。

最初に

無関心な人を傷付けても何も感じない
最初にちょっとイレギュラーを出しておくと可愛くて逆に傷付けたくなる(キュートアグレッション)などの生理現象です
これらは人の性質ってやつですね、サディスティックとかもその類いだと思います

これらは理屈で説明もできないので省きます

これから話すのは先天的な性質からではなく後から生まれた感情や気持ちから起きるいじめについてです

前提

人間、友達など輪を作って生きる者としてはいじめをして、輪から迫害するのは少し矛盾していますよね。道徳的にも社会的にも不健全です

ですがいじめてる本人としてはどう感じているんでしょうか、よく漫画とかで見るいじめは複数人が束になって主導者がいます
いわゆる「いじめグループ」です

ここで見て欲しいのがこの「いじめ」という括りにいる登場人物です、「いじめられてる人、いじめてる人」二つでひとつの輪ができてるんですよね。だから非道徳という自覚がない。
というのが見解です

いじめる動機

グループに所属してると色々なことをすると思います、一緒にご飯食べたりどっか出掛けたり。いじめはその延長線にあるのかと
でも仲良くとかじゃなくて、その逆のいじめたいなんですよね

ここからはいじめてる本人の心情を探っていきたいと思います

まず本人がいじめを行う動機です
さっき前述した性格の有無を置いて言えるのは「動機」です、意識的であれ無意識であれ何かしらの意味がないと人間やる気は起きません
健全に生きてればわざわざ人をいじめるなんて発想は起き得ないと思いますから

私はそこに大きく分けて二つの理由に分かれてると思います

「他人に向けた感情」と「自分に向けた感情」です

前者は想像に難くないと思います
例えば成績が良いから癪に障るなど、いじめ以外にもよくある特定の人に向けた動機です

後者の「自分に向けた感情」とは自身が感じる嬉しいとか悲しいとかそういう感情です、他人に向けた感謝とか恨みではなくいわば自分の感情ですね

なぜ「いじめ」ができるのか

「いじめ」と「いじり」は似て非なるものですよね、やっていいことと悪いことの線引きができているか否かという
いじめはそういう線引きができない人による「仲間意識」から来るものなんじゃないかと

先程話した輪の話ですね

「楽しいからいじめる」
「いじめないと楽しくなくて心に彩りがないからいじめる」
等々…「自分の感情にフォーカスして行動する」でもその感情はいじめで起きるから「輪」を作って「仲間意識」から、いじめる
いじめても大丈夫だろうと思っているからやるという見解です

おわり

以上が私が感じたいじめへの意識の一つです
「どの感情から、どういった気持ちから」というのは本人にしか分かりえないものなのでここで憶測でも答えるのは差し控えます

ただ一つの見解でも共有できたらなと思い書いた所存です

なにかお役に立てれば幸いです
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