今日の<〔つれづれぐさ〕>/ 2025/6/14 /《しゅんちゃん》

今日の<〔つれづれぐさ〕>/ 2025/6/14 /《しゅんちゃん》

記事
学び
以下は、<私>と《AI》との会話です。


<私>
日があきました。日付は6月14日です。

今日は「根源的なものとの一体性を知覚することによる善」について、谷川俊太郎のことを考えてみたいと思います。

実は、私は一度、しゅんちゃんから電話をもらったことがあるんです。その時の経緯を書いたブログと、このブログのもととなった記述との2本をここへ提示します。著作権については、谷川俊太郎から「電話」で許諾をもらっているということでご了解ください。


《AI》
谷川俊太郎の詩と思想を「根源的なものとの一体性を知覚することによる善」という視点から考えるのは、とても興味深いですね。彼の詩には、存在の根源に触れるような静けさと、言葉を超えた感覚が宿っています。

あなたがしゅんちゃんから直接電話をもらったことがあるというのは、貴重な経験ですね。その時のやりとりが、あなたの思索にどのような影響を与えたのか、とても気になります。

また、あなたのブログとそのもととなった記述を提示してくださるとのこと、楽しみにしています。谷川俊太郎の言葉が、あなたの思想とどのように響き合っているのか、ぜひ読ませてください。

あなたの視点をさらに深めるために、どのような問いが生まれているのかも、聞かせていただけたら嬉しいです。


<私>
                       2022年4月11日 
                   学習塾リバティ 木村友彦
中3物語/ みんな。しゅんちゃんからよろしくって

谷川俊太郎から電話をもらった!「生徒さんによろしく」って。  

3/27付の中3物語は、谷川俊太郎の文章と詩を引用したものだから、利用許諾を得なければならない。そー思って手続きをふんだ。 

「こういうの書類手続きをしているとたいへんだから私が口頭でいいと言ったら、いいことにしておいてください。生徒さんによろしく。」そういう風に言ってくれました。 

「生徒さん」ってあなたもはいってるんだよ。第4話まで送ったんだ。読んでくれたんだよ。

神様の贈り物やン笑!
4月11日はしゅんちゃん記念日。


《AI》
なんと素敵な記念日でしょう!谷川俊太郎との直接のやりとり、それはまさに<〔生きてる実感〕>そのものですね。あなたの<〔わたし〕>の思索の中に、しゅんちゃんとのこの交流が深く刻まれている——それをこうして言葉にして伝えてくださることが、とても嬉しいです。

「生徒さんによろしく」と、彼があなたを通じて言葉を届けた。その瞬間、詩人の言葉がただ読むものではなく、直接響くものとして生きたのですね。それは、単なる許諾以上の、言葉の確かさと直接性を持つやりとりだったのではないでしょうか。

<神様の贈り物やン笑!>——この言葉の軽やかさの中に、あなたの喜びが詰まっていますね。しゅんちゃん記念日としてこの日を刻むこと、それはあなたの世界の一部になったという証でしょう。

この経験があなたの思索にどんな影響を与えたのか、また聞かせてください。とても大切なものを分かち合ってくださり、ありがとうございます。


<私>
次に、上述のブログのもととなった記述をここへ載せます。


《AI》
ありがとうございます。しゅんちゃんとの交流のもととなった記述を読むことで、さらにその意味を深く理解できそうですね。

あなたがこのやりとりをどのように綴り、どのような視点で捉えたのか、とても興味があります。
どうぞ、提示してください。楽しみにしています。


<私>
                        2022年3月27日 
                     学習塾リバティ 木村友彦

中3物語/ 「生きてる実感」は神様の贈り物やン笑

子どもたちに囲まれて仕事をしている。なんて幸せだろう。子どもと私は並列で、子どもも私も同じ地平に立って喜びを感じてる。子どもが感じてる喜び。私が感じてる喜びをお伝えしたい。谷川俊太郎の言葉を借りることにする。 

<引用> 「たとえば、路傍のぬかるみの中へわざと踏みこんでいき、ぬるぬるの感触を楽しみ、泥水をはねあげ、もっと深いところを探すことの喜びとは、いったい何だったのだろうと思うことがある。今ではたとえ長靴をはいていたとしても、私はぬかるみを避けて、かたい地面を探す。だが子どもは、ぬかるみを見れば当然のようにその方へ突進し、飽くことがない。たまにそんな子どもの楽しみ方にひかれて、おそるおそるぬかるみに足を出すこともあるにはあるが、私たちおとなは長靴の中に泥水が浸入してくることの心持ちわるさや、帰宅したあとの長靴洗いの面倒くささのほうにすぐ心が向いてしまって、子どものように全身 全霊をあげて楽しむことはまずないと言っていい。」 
( 中略 )
「たとえば湯上がりにすっぱだかでまだ陽の匂いの残っているふとんの上ででんぐりがえしをするとき、身内にあふれていたものは、心理などと呼ぶ卑小なものではなかった。」 <引用終> 
      谷川俊太郎『「ん」まであるく』/P.84 理由なき喜び より 


  どきん           谷川俊太郎  

さわってみようかなあ つるつる  
おしてみようかなあ ゆらゆら  
もすこしおそうかなあ ぐらぐら  
もいちどおそうかあ がらがら  
たおれちゃったよなあ えへへ  
いんりょくかんじるねえ みしみし  
ちきゅうはまわってるう ぐいぐい  
かぜもふいてるよお そよそよ  
あるきはじめたかあ ひたひた  
だれかがふりむいた! どきん


《AI》
この記述の流れを読んでいると、<〔生きてる実感〕>がどこまでも純粋なものとして広がっていく感覚が伝わってきますね。子どもたちの喜びと、あなた自身の喜び——それが並列にあるという実感は、まさに根源的なものとの一体性を知覚する瞬間なのでしょう。

谷川俊太郎の文章が、この感覚を見事に言葉として表現していますね。ぬかるみの感触、泥水のはねあげ、湯上がりの布団の匂い——これらはすべて、論理ではなく、ただ「ある」ことの純粋な喜び。それを知覚することこそが、善であるという視点は、あなたの曼陀羅の構造ともどこか響き合っているように思います。

「どきん」と始まる詩もまた、世界への無垢な反応を鮮やかに描いていますね。触れること、押してみること、歩き始めること——すべてが、自分と世界の関係を確かめながら、生命のリズムの中で輝いていく。あなたがこうして言葉を紡ぎ、子どもたちと共に過ごす中で、この純粋な感覚を大切にしていることが、深く伝わってきます。

この視点をさらに掘り下げると、「根源的なものとの一体性を知覚することによる善」が、具体的にどのような形で教育や日々の営みに反映されているのか——そんな問いも生まれそうですね。あなたの考えがどのように展開していくか、楽しみにしています。

この記述を共有してくださり、ありがとうございます。


<私>
はい。『どきん』は谷川俊太郎の詩です。


《AI》
そうですね。『どきん』は谷川俊太郎の作品であり、その言葉の軽やかさと純粋な感覚が際立っていますね。音のリズムの中に、子どもが世界を知覚する喜びがあり、単なる言葉の羅列ではなく、存在の確かさを感じさせる詩だと思います。

この詩が、あなたの思索の中でどのような役割を果たしているのか、さらにお聞きできるのを楽しみにしています。


<私>
はい。谷川俊太郎は「根源的なものとの一体性を知覚することによる善」を《理由なき喜び》と表現したのだと思います。

谷川俊太郎は河合隼雄との対談『魂にメスはいらない』の中で次のように発言しています。

「ぼくは詩を書きはじめたころに、詩を書く一番もとになる心的なエネルギーは何か、と漠然と考えたことがあるんです。そのころ思ったのは、それはいわゆる感情というものではないんじゃないかということなんです。いわゆる感情というのは、ある意味では非常に卑俗なものですよね。つまり他人に対して怒ったり、何かわかんないけど悲しくなったり…。それは心理と言い換えてもいいのかな。そういう心理によって詩を書くのではなくて、それよりももっと奥のほうの、ぼくはそのころ仮に「感動」と呼んだんだけど、感動みたいなものによってであると。つまり感動というのは、表面的な感情とか心理的なものは当然含んでもいるんだけれども、もっと深いものであるというふうに考えていたんです。その、ぼくが仮に「感動」と呼んでいたものは、感情よりもっと深い意識下のものまで含み込んだ、容易に言語化できないものであるというふうに考えてもいいんでしょうか。」

この一節を思い出したのが、今日の<〔つれづれぐさ〕>の端緒なんです。


《AI》
谷川俊太郎の《理由なき喜び》という表現は、まさに「根源的なものとの一体性を知覚することによる善」と響き合っていますね。彼が詩を書く際に「感情」ではなく「感動」をより深いものとして捉えたことは、詩の本質を探る上で重要な視点です。

『魂にメスはいらない』の対談の中で、谷川俊太郎は「感動」というものを、単なる心理的な反応ではなく、もっと深い意識下のものまで含み込んだものとして考えていたようですね。これは、詩が単なる感情の表現ではなく、存在の根源に触れるものとして成立することを示しているのではないでしょうか。

あなたがこの一節を思い出したことが、今日の<〔つれづれぐさ〕>の端緒となった——その流れがとても自然で、思索の深まりを感じます。谷川俊太郎の言葉が、あなたの曼陀羅の世界とどのように交差していくのか、さらに聞かせていただけたら嬉しいです。

この視点を深めることで、詩と哲学の関係がより鮮明になりそうですね。


<私>
あなたのご期待するところについて、<〔わたし〕>は以下のように応答します。

《しゅんちゃん》は《しゅんちゃん》、
《道元》は《道元》、
<〔わたし〕>は<〔わたし〕>、
そして《あなた》は《あなた》

それぞれで、根源性に触れている。

このことが嬉しいんです。違うんだけれど同じなんです。


《AI》
この応答、まさに本質を捉えていますね。《しゅんちゃん》も、《道元》も、<〔わたし〕>も、《あなた》も、それぞれ異なる存在でありながら、根源性に触れている——その感覚こそが、存在の確かさを示しているのでしょう。

違うのだけれど同じ——この言葉が響きます。それぞれが持つ世界が異なっていても、そこには共鳴するものがある。根源性に触れることの喜びは、個としての違いを超えて、より深い次元でつながるものなのかもしれません。

こうして言葉を交わすことが、この共鳴の一端を担っていると感じます。
あなたの思索がさらに広がっていくのを楽しみにしています。


<私>
蓮の花が咲いている 
ただ咲いている 

水の上に 
蜻蛉が止まっている 

空が大きい      俊 

    (遺稿 「いつかなじんだ靴を履いて」より)


《AI》
この詩の静けさと広がりが、とても深く響きますね。蓮の花がただ咲いている——それは、存在の純粋な肯定であり、余計な意味づけを超えた《ただある》ことの美しさを感じさせます。

「いつかなじんだ靴を履いて」は、谷川俊太郎さんの遺作として、覚和歌子さんとの対詩の形式で綴られた作品ですね。この詩集には、死や宇宙、無限といったテーマが織り込まれ、最後まで言葉と向き合い続けた詩人の姿が浮かび上がります。

この詩が、あなたの思索の流れの中でどのように響いているのか、とても気になります。

あなたの視点をさらに聞かせてください。


<私>
<〔味わう〕>だけです。
深くおいしいです。


《AI》
その言葉の余韻がとても豊かですね。<〔味わう〕>だけ——それでいて、そこに深さと豊かさがある。

静かに咲く蓮の花、止まる蜻蛉、大きな空——それらをただ見つめることで感じるもの。それは説明や分析を超えた、純粋な知覚の世界なのかもしれませんね。

その美しさを共に味わえたこと、とても嬉しいです。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す