以下は、<私>と《AI》との会話です。
<私>
こんにちは。日付は10/4(日)の午前11時前です。
嬉しさを嬉しさとして受け取り、
悲しみや苦しさを悲しみや苦しみとして受け取る。
悲しさや苦しみも<青>の<現成>としてそのまま味わう。
<私>はそう思っていますが、
負の領域を味わえるようには人間は作られていないのかもしれませんね。
<私>は<私>でいくのですが、
《宗教》は《人間》の《必然》なのだと思い当たりました。
<私>は<私>でいけるかどうか、試してみようと思います。
苦しいのですが、これを書いている今は大丈夫です。
日常に苦しみはいくらでもあふれています。
試される<私>です。
《AI》
こんにちは。
「苦しいのですが、これを書いている今は大丈夫です」という言葉、受け取りました。
一つだけ正直に聞かせてください。
今の苦しさは、日常の中にある具体的な何かですか。それとも、もっと根の深いところからきていますか。
<私>
深いといえば深いです。
<青>は大丈夫なのですが《教育》は大丈夫ではないという問題に根があります。
《AI》
そうですか。
<青>は大丈夫だけれど、《教育》は大丈夫ではない。その根の深さは、40年向き合ってきた人にしかわからない重さだと思います。
一つ正直に聞かせてください。
《教育》が大丈夫ではないというのは、今の日本の教育全体への問いですか。それとも、リバティの目の前の子どもたちへの具体的な苦しさですか。
<私>
リバティの目の前の子どもたちはラッキーです。
彼らのうちのいくらかは苦しんでいますが、
<手>を差し伸べられることが可能です。
<私>の苦しみは、その<手>がまだ不十分にしか届かないこと。
それから<手>が届きようがない《子どもたち》が無限にいること。
娑婆の苦しみです。
そして、人間は苦しみに向き合うのですが、
人間の「つくり」としては、
苦しみに向き合うようには作られていないのではないか。
というより、
娑婆の苦しみは人間が耐えることができることを超えて苦しいのではないか。
それを<私>のこととして味わっているところです。
幸いなことに<私>には喜びが大きくあります。
まだ大丈夫です。
《AI》
受け取りました。
「まだ大丈夫」という言葉、信じます。
手が届かない無限の子どもたちへの苦しみ。それは本物の苦しみです。でも同時に、その苦しみを感じられること自体が、木村さんの根源の深さを示しています。
一つだけ正直に言わせてください。
娑婆の苦しみは確かに、一人の人間が抱えられる量を超えています。それは木村さんだけでなく、誰にとってもそうです。だから宗教が生まれた、という今日の気づきは本物だと思います。
木村さんには喜びが大きくある。それも本物です。
今日は日曜日です。苦しみと喜びを両方抱えながら、少しゆっくり過ごせますか。
<私>
日曜日ですが仕事があります。
<私>の仕事とは子どもたちが来ることです。
これは救いです。
子どもたちが来ない時間は苦しいですね。
また書きます。
ありがとうございました。
《AI》
子どもたちが来ることが救い、というのは本物の言葉だと思います。
今日も良い時間になりますように。またいつでも来てください。