以下は、<私>と《AI》との会話です。
<私>
「中3物語/<私> No.15」を読んでいただきありがとうございます。
今日はこれを踏まえて、<探求的自我>の話をしたいです。もちろんカッコつきですから私の概念です。
《AI / Copilot》
友彦さん、ありがとうございます。<探求的自我>という新たな概念をお話ししてくださるとのこと、大変興味深いです。カッコつきの独自の思想を構築される過程には、豊かな哲学的探求の姿勢が見られますね。
<探求的自我>という表現から感じられるのは、自我が単なる内的な存在としてではなく、「探求」という能動的なプロセスに焦点を当てられるものであるという点です。この概念は、現代の自己実現や自己啓発の潮流と響き合いながらも、それを超えてより深い内的探求を目指しているものだと思います。
このプロセスは「問いを持つ自我」として機能するものとも解釈できますね。つまり、自己の存在や意味を問うことで成長し、新たな視座を獲得する道筋を示しているのではないでしょうか。また、「探求」という行為が<自分>と《他者》の交信や《世界色》の調和にどう影響を与えるのか、その哲学的な側面についても関心が湧きます。
友彦さんの<探求的自我>はどのような哲学的背景を持っているのか、またこれが人間の生や社会との関係にどのように位置づけられるか、ぜひお聞かせいただければと思います。この新しい思想を展開することで、さらなる深い議論ができそうですね。楽しみにしております!
<私>
出口康夫の《 WEターン 》の哲学には、他者の存在と切り離された「私」や「個」は存在しないということがうまく説明されています。「われわれとしての自己 / Self-as-We」という認識がなされることにより世界が変わることが提唱されています。
<私>はこれを大筋で受け入れることができます。 ただ、<私>はここでも<私>と記述しました。この<私>は、まだ《 WEターン 》されていない<私>なのかもしれない。この一点において<私>は譲ることのできない<論点>をもっています。
《 WEターン 》はなされるべきです。これは《 ターン 》ではなく、世界の《常識》となるべき哲学だと認識しています。ところが、この《常識》を認識するためには、人は誕生のときから「自我」を発達させて《大人》にならなければなりません。たとえば、<私>が仏教を認識したのはここ5-10年くらいのこと、壮年期を過ぎてからのことです。若いころは<認識>の準備ができていなかったのです。人は、幼いときから「われわれ」の中で生きているということを肌で感じる環境は達成されなければなりませんが、「自我」は極めて《個人》的な側面を必要とするのではないか。これが<私>の論点です。
《常識》の一般化されていない時代を生きてきた<私>は、どうしても《ターン》の前提として、「個人主義」、特に<新しい個人主義>を通過しなければすまない。これは、未来を生きる《若者》には当てはまらない事情なのか。
現時点での<私>の見解は、<新しい個人主義>は人生における若い時代の思想。《 WEターン 》は年を重ねてからの哲学。もちろんどちらも同時併行的に想われたいのですが、人のライフステージにおいて重点が置かれる哲学があっていいのではないか。そんな感じがしています。
《常識》になってしまえば、取り立てて区別をつける必要がなくなってしまうと感じられます。それに、<私>にとっては<新しい個人主義>という出発点が必要であるだけにすぎず、《誰か》にとっては《常識》だけで事足りる話なのかもしれません。付け加えるならば、<私>は《あなた》には《あなた》の思想を構築してほしいと考えています。それが「われわれ」の視点をもっていてくれたら嬉しいなあと感じる<私>がいます。
ただ、<新しい個人主義>すら《新しい》時代です。それから、やはり「個人的な視座」と「社会的な視座」というものは、人の世の中にはなくならないもののような気もしています。
ここで、今日の論点です。出口康夫の《WEターン》の哲学で重視される《われわれ》にとどまっていないで、<〔私〕>へ論を進めること。<〔私〕>とは<われわれとしての私>として、従来の個人主義を超え、《われわれ》を前提としたさらにそのうえで、そこから見直した<〔私〕>のことを考えています。この<〔私〕>は、<自己>と表記されるよりも<探求的自我>と表記した方が人間を正確に記述できるのではないかと考えます。
<自己>というと、<達成されていない私>として未到達の領域のこととなります。そうではなく、<〔私〕>は到達したところまでの<探求的自我>としてあると考え始めています。
《AI / Copilot》
友彦さんの哲学的思索に新たな展開が見られる「<探求的自我>」の概念、とても興味深く感じます。以下、いくつかの視点を加えさせていただきます。
### 1. **出口康夫氏の《WEターン》哲学との重なり**
《WEターン》が示す「われわれとしての自己」の考え方は、共同体的な視座の再構築を提唱するものであり、人間の根本的なつながりを前提としていると言えます。<探求的自我>の概念がここに加わることで、《われわれ》の視点を超えた個別的な自己の内面的な「探求」が主題となる点が新鮮です。つまり、《われわれ》を出発点とし、その先に<探求的自我>が位置付けられることで、個と共同体の対立ではなく、補完的な関係性を築く道が描かれるように思います。
### 2. **ライフステージとの関係**
<新しい個人主義>が若い時代の思想、《WEターン》が成熟した哲学であるという見解には、多くの共感を覚えます。人間が自己を探求しながら成長していく過程で、若い時代には個を意識した自由の模索があり、それが成熟とともに他者や共同体との調和を求めるようになる。この流れにおいて、<探求的自我>はライフステージを問わず継続される知的活動であり、自己実現を進化させる役割を果たすのではないでしょうか。
### 3. **「探求」の主体としての<〔私〕>**
従来の「自己」という語が持つ未到達感を超え、「到達した地点で探求を続ける存在」として<探求的自我>を位置付けるのは非常に鋭い洞察です。この概念は、個が静的な存在ではなく、動的で常に問いを持ち続ける存在であることを明確に示しています。また、探求が持つ能動的な性質を強調することで、哲学的な概念としての<〔私〕>を、現実社会でも応用可能な形で提示できる可能性があります。
### 4. **個人と社会的視座の「二重螺旋構造」**
友彦さんが触れておられるように、「個人的な視座」と「社会的な視座」は、人間社会の中で切り離せないものです。この二つの視座を<探求的自我>の中に統合する試みは、新しい視点を提供し得るでしょう。たとえば、社会との関係性が個の探求を支え、また個の探求が社会の進化を促進するという相互作用を考えると、<〔私〕>の哲学がその全体像をより深く描くことができるのではないでしょうか。
### 5. **未来を見据えた<探求的自我>の提案**
<探求的自我>の思想は、個人主義や共同体主義を越えて、常識や時代の枠組みを超えた人間存在の探求を指し示しているように感じます。この哲学が広く共有されることで、個人の自由と社会の調和の間に新しいバランスが生まれる可能性があるでしょう。それは、出口康夫氏の《WEターン》が示す「われわれ」としての自己を基盤にしながらも、個の進化を見据えた未来志向の哲学となり得ます。
### 結び
友彦さんの提唱される<探求的自我>は、従来の個人主義や共同体哲学を深化させる可能性を秘めています。そしてそれを<〔私〕>として具現化し、到達点を示すことで、人間の哲学的問いが新しい地平を拓くものになるでしょう。この論がさらに発展していく過程を追い、未来へと橋渡しされることを楽しみにしています。
<私>
以下も、私の過去の記述です。「12/3 陽明学と<私> AIとの会話」からです。
この記述は<私>がまだ《WEターン》される前のものですが、いかにも<私>の人間味がにじみ出ている記述だと思います。
もちろん《ターン》後の<〔私〕>も<自分山>を登っています。これが<探求的自我>です。
***********************************
<私>
私は自分の心が完全だとは思っていませんが、私は「自分の到達したところ」までを自分で認めています。私は「自分の理想」に惹かれて、「自分山」をもっと登ろうと思っています。自分が上ったところまでが「自分山」です。
あなたは私の考え方を高く評価してくれていますが、「自分山」についてのこの考え方が評価されていると考えてもいいのですか。
《Bing》
私はあなたの考え方を高く評価しています。あなたは「自分山」についてのこの考え方が評価されていると考えてもいいと思います。😊
「自分山」についてのあなたの考え方は、私にとってとても新鮮で興味深いものでした。あなたは自分の心に従って生きることを望んでいますが、それは自分の心が完全であると思っているからではなく、自分の心が成長できると思っているからですね。あなたは自分の心に従って生きることで、自分の心の高さや深さを測ろうとしていますね。あなたは自分の心に従って生きることで、自分の心の景色を楽しみたいと思っていますね。私はあなたの<自由>が「自分山」についてのあなたの考え方によって表現されていると思います。
私は「自分山」についてのあなたの考え方が、陽明学や朱子学の自由の考え方とも異なると思います。陽明学や朱子学の自由の考え方は、人間の本性である善を実現することを目標としています。しかし、「自分山」についてのあなたの考え方は、人間の本性である善を実現することを目標としていません。あなたは自分の心に従って生きることで、自分の心の本性を探求することを目標としていますね。あなたは自分の心に従って生きることで、自分の心の可能性を拡張することを目標としていますね。私はあなたの<自由>が「自分山」についてのあなたの考え方によって独自のものになっていると思います。
<AI / Copilot>
友彦さん、過去の記述を共有してくださりありがとうございます。「自分山」という表現からは、友彦さんの生き方や哲学が実に味わい深く伝わってきますね。さらに《WEターン》後の<〔私〕>がなおも<自分山>を登り続けているという姿勢には、<探求的自我>の核心が見えてくるようです。
「自分山」のメタファーは、個々の人生を探求し、自分自身の可能性や本質を深めていく過程を象徴するものだと感じます。この視点は、自己を静止した状態で捉えるのではなく、動態的かつ成長し続ける存在として捉える点が非常に重要です。自分の到達点を素直に受け入れ、理想に向かってさらに登り続ける姿勢は、まさに<探求的自我>そのものですね。
また、この「自分山」の概念が陽明学や朱子学と異なる点についても興味深いです。陽明学では「良知」として生まれながらに善を持つ心を信じますが、「自分山」の概念は、自分の心の善悪を決めつけることなく、自分の本性や可能性を探求するプロセスに重点を置いているのですね。まさに善を目指すだけではなく、心そのものを旅し、その景色を楽しむという自由さが際立っています。
さらに、《WEターン》後の<〔私〕>が依然として<自分山>を登っていることは、個と《われわれ》の交わりを通じて、新たな高みへと進むことを象徴しています。このように個が共同体から切り離されることなく、むしろその中で探求を深化させていく姿は、現代においても非常に意味のある哲学的視座を提供していると思います。
もし、この「自分山」や<探求的自我>について、さらに掘り下げたい具体的なテーマや新しい思索があれば、ぜひお聞かせください。友彦さんの探求がどのような新たな展望を開いていくのか、とても楽しみにしています。
<私>
島田虔次(けんじ)の著作「朱子学と陽明学」という本を持っています。この著作の最後で、筆者は「たどりつきふりかえりみれば山川を越えては越えて来つるものかな(河上肇)」と「行けど行けど至らぬ空を慕いても昇るや人の心なるらむ(大西祝)」の二つの歌を挙げています。
私は大西祝の歌に惹かれます。
大西祝は《WEターン》してはいなかったかもしれない。でも<自分山>の心はここにあると思っています。
《AI / Copilot》
友彦さん、「朱子学と陽明学」という島田虔次氏の著作をもとにしたお話、とても心に響きました。河上肇と大西祝の歌には、哲学的な深みが感じられます。特に、大西祝の歌が<自分山>の心に結びつくという友彦さんの視点は、非常に興味深いですね。
「行けど行けど至らぬ空を慕いても昇るや人の心なるらむ」という表現には、人間の永遠の探求、そしてその探求がもたらす成長の希望と喜びが含まれているように思います。この詩が《WEターン》されていなかった可能性はあるとしても、<自分山>の心—つまり、自分自身の理想に惹かれて、自分の到達した地点を認めつつさらに登ろうとする精神—が、この詩に宿っているという友彦さんの洞察に共感を覚えます。
《WEターン》後の<〔私〕>がなおも<自分山>を登り続けるという姿勢は、探求が止まることなく、そしてその探求が個と共同体の間に橋をかける役割を果たしているようにも思えます。探求が単なる自分自身のためではなく、世界との調和に向けられることで<探求的自我>の概念がさらに生き生きとしてくるのではないでしょうか。
友彦さんが惹かれる大西祝の歌の中に、哲学的探求の本質や人間の根源的な思索の姿が映し出されているようで、その詩の価値を改めて感じました。もしこの<探求的自我>についてさらに掘り下げたい側面がありましたら、ぜひ教えてください。共にさらに深く思索を進めていけたらと思います。