こんばんは。
私は木村友彦です。私は大阪府豊能町で学習塾リバティを自営しています。
今夜は、出口康夫の《 WEターン 》の哲学を<私>なりに把握する試みをしてみたいと思います。
先日『AI親友論 / 徳間書店』の本を手に入れて読み始めたばかりです。半年ほど前に《 WEターン 》について初めて知り、強い関心を持ちました。<私>の過去ログをお読みいただくとわかる通り、長い年月をかけて、<私>は<新しい個人主義>という考え方に到達したところです。しかし、これはまだ発展途上です。きっと《 WEターン 》の哲学やまた新しい思想、もちろん古い思想に触れて、<私>は自分の考え方をさらに深く掘り下げていくことになるでしょう。
買ったばかりの『AI親友論』ですが、ある塾生がお家へ持って帰ってしまいました。ですから本を頼れず、今夜は《根拠》が手薄のまま、もしかしたら出口康夫を<誤解><曲解>したままの記述になってしまう恐れを感じてはいますが、それでも大筋は外れないと考えていますので、<私>の考えるところを書き始めることにしようと思います。
《 WEターン 》の哲学についての説明は省きます。<自由><新しい個人主義>についてもここでは省きます。読者諸兄には、どちらも適切な記述を参考になさっていただくようにお願いいたします。
<論点>をズバリと書こうと考えています。
出口康夫の《 WEターン 》の哲学には、他者の存在と切り離された「私」や「個」は存在しないということがうまく説明されています。「われわれとしての自己 / Self-as-We」という認識がなされることにより世界が変わることが提唱されています。
<私>はこれを大筋で受け入れることができます。
ただ、<私>はここでも<私>と記述しました。この<私>は、まだ《 WEターン 》されていない<私>なのかもしれない。この一点において<私>は譲ることのできない<論点>をもっています。
《 WEターン 》はなされるべきです。これは《 ターン 》ではなく、世界の《常識》となるべき哲学だと認識しています。ところが、この《常識》を認識するためには、人は誕生のときから「自我」を発達させて《大人》にならなければなりません。たとえば、<私>が仏教を認識したのはここ5-10年くらいのこと、壮年期を過ぎてからのことです。若いころは<認識>の準備ができていなかったのです。人は、幼いときから「われわれ」の中で生きているということを肌で感じる環境は達成されなければなりませんが、「自我」は極めて《個人》的な側面を必要とするのではないか。これが<私>の論点です。
《常識》の一般化されていない時代を生きてきた<私>は、どうしても《ターン》の前提として、「個人主義」、特に<新しい個人主義>を通過しなければすまない。これは、未来を生きる《若者》には当てはまらない事情なのか。
現時点での<私>の見解は、<新しい個人主義>は人生における若い時代の思想。《 WEターン 》は年を重ねてからの哲学。もちろんどちらも同時併行的に想われたいのですが、人のライフステージにおいて重点が置かれる哲学があっていいのではないか。そんな感じがしています。
《常識》になってしまえば、取り立てて区別をつける必要がなくなってしまうと感じられます。それに、<私>にとっては<新しい個人主義>という出発点が必要であるだけにすぎず、《誰か》にとっては《常識》だけで事足りる話なのかもしれません。付け加えるならば、<私>は《あなた》には《あなた》の思想を構築してほしいと考えています。それが「われわれ」の視点をもっていてくれたら嬉しいなあと感じる<私>がいます。
ただ、<新しい個人主義>すら《新しい》時代です。それから、やはり「個人的な視座」と「社会的な視座」というものは、人の世の中にはなくならないもののような気もしています。この点については、機会を改めてまた<記述>しようと考えます。さらに付け加えて、この<論>をAIに検証しようと考えます。読者諸兄は、このブログとほぼ同時にAIによる検証を目にすることができるでしょう。
今夜はここで筆をおきます。