なぜ4つの福音書で微妙に事実が違うのか

なぜ4つの福音書で微妙に事実が違うのか

記事
コラム
4つの福音書、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書のうち、同じ場面でも微妙に異なる個所がある。
真実は常に一つのはずなのだから、見方の違いはあっても、事象そのものが違うというのは、どれかが間違っていると思わざるを得ない。
記憶違い、勘違い、言い間違い、または解釈の違い、聞き間違い、意訳をしてしまった、などなど、理由は様々に考えられるが、この違いについて考察してみようと思う。
まず、イエスが12使徒を伝道の旅に遣わすとき、マタイ福音書では、金貨も銀貨も銅貨も杖も袋も持って行ってはならない、下着も2枚持って行ってはならない、と言われたとされています。あらゆるものを持っていくなと。下着さえ2枚持っていくなということだから、風呂に入ってる間に、自分の履いてる分を洗っておかないと着替えすらないわけですよ。これだけ厳しいことを言っているのだが、マルコ福音書では、杖は持って行っていい、履物も履いていい、と言われたと書いてます。さて、どちらが正しいのでしょうか?
結論から言うと、マルコ福音書では、著者マルコはイエスと同行したわけでもなく、イエスと会ったことすらもない人ですから、マタイやヨハネと違い、伝文を書いているにすぎないわけです。そこで一つ疑問が生じるわけです。
マルコにイエスのことを話したのはペトロと言われてます、ペトロは正確にイエスが言ったことを伝えたはずです。杖や財布や多少の金を持って行ってもいいと許したのは12人の直弟子でなく、その後の72人のキリスト教徒たちを旅に遣わしたときに言った話なんですよ。たぶん直弟子以外の弟子は、そこまで厳しいこと言ってもできないだろうから、ぬるい感じにしたんでしょうね。それでマルコが、この話を聞いて、直弟子も杖を持って行っていいと許可されたと勘違い、思い違いをして書いてしまったんじゃないでしょうか。
つまり間違ったことが書かれた書物が2000年以上も連綿と伝えられ続けているわけです。しかし、この話、ただ単に記憶違いで異なる描写になりましたよね、まあ堪忍してや、という話ではないのですよ。この微妙に違う箇所があることで、「あれ、ここは他の福音書では違うように書かれてたな・・」と、何回も聖書を見直すわけです、必然的に、聖書を何回も読み返すことになるわけですよね。つまり、マルコが記憶違いで書き間違うことすらも含めて神の計画だったと考えることもできますよね。また、ここの部分の話は、信仰心のレベルによって、金も物も何も持っていくな、それが理想ではあるがマストではない、できないなら杖くらいは持って行っていいよ、ということ。初心者と熟練者とでは装備に差があるのは当然のこと。なるべく物は持たずに、っていうことだが、信仰レベルが低い人は、多少は持って行っていい、ってこと。赤ん坊に離乳食を食わせながら、徐々に固いものを食わせるような過程ですよ。
でも、方向性が真逆だったらダメですよ。要するにイージーモードからハードモードまで用意されているゲームみたいなもんと私は考えます。
頭の固い人は、真実は常に一つだろうが!真実は相対化されてはならない!とこうムキになって反論してしまうでしょうけど、そういう人って、自分だけは間違ってないと信じているんでしょうね。人にはワイシャツのシワやら寝癖やら、ごちゃごちゃ指摘するのに、自分の社会の窓が全開になってるのには気づいてないみたいなさ。
真実は一つ、正しいものは一つ、イエスのやったように全部やれ!パンツすら1枚だけで過ごせ!って、それ守れるやつ現代人にいないでしょ?絶対いないから。まあ、でも理想はそうあるべきなのかもしれない、ってのもわかる。
目指すべき方向性は理解できる。でも、誰もがそれをできるか?できない人間は切り捨てるのか?それじゃ戦争で、重傷者を切り捨て見捨てた兵隊と同じじゃないか・・育てないとダメでしょ。会社で営業の新人を雇うときだって、試用期間を半年とか長めにとったりしますよ、余裕のある会社なら。営業なんて、すぐ成績出せるもんじゃないですからね。でも、余裕ない会社だと試用期間が1~2か月だったりするんですよね、すぐ結果出せと。で、もっと余裕ない会社だと、もう経験者しかとらない、最初から。今、こういう時代ですよね、最初から余裕がない。だから社会全体がギスギスしてるでしょ。そもそも、今、仕事バリバリできてる人なんてワクチンで毒ガス人間になったりしてるタイプですからね。人を毒殺してる自覚なんて1ミリもないけど、実際は人を殺してるんですよ、自覚のない悪が蔓延してる。ワクチンを打った医者も、人に勧めた人も、打たれた人間も、全員、自覚のない悪を行ったのだ。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す