最後の審判で神に提出する人生レポート

最後の審判で神に提出する人生レポート

記事
コラム
全ての人間は必ず最後に、神の前にひき出され、そこで審判を受けることになるのだが、この時に、生前に自分がどのような人生を送ってきたか、何を考え、何を言い、何をして、何をしなかったか、言ったことも、思ったことも、書いたことも、したことも、その全ての行動の説明を求められる。どのようなくだらない言動においてもだ。あの時お前は、こういうことをしたな、それはなぜだ?あの時はお前は、こういうことを言ったな、それはなぜだ?そしてそれに対し弁解をしなければならない・・もうこれは一般人からしてみれば黒歴史品評会というか反省会というか、ある意味で地獄の火で焼かれるよりもキツいかも知れないと思う。でも、こう言う人もいるかもしれない、死ぬ前にボケて認知症になったり、障がい者になったりしてたら、弁解もくそもないのでは?とね。でも、そういう屁理屈を考え付く前に、自分の心を正すほうが先ではなかろうか?と私は思う、神の前にひき出されるときは正常な精神状態に戻され詰問されるかもしれないのだからね。
だが、私もそれほど褒められたような人間ではない、いろいろと罪を犯してきた普通の人間だ。なので、その罪の一つ一つを事細かに責め立てられても弁解の余地はないかもしれない。ただイエスが私の弁護人としてついてくれるのであれば、神の前で罪なしとされる・・それだけが希望である(イエスも神ではあるのだが、本体であるヤハウェの前においては区別される)
つまりイエスに味方されなければ、もう終わりだということ。だからこそ、イエスに嫌われないようにしなければいけない、嫌われないようにというか、好かれるようにというか、彼を愛さなければならない。イエスもまた裁き人としてやってくる、もし我々が悪魔の側につくのであれば見捨てられ滅ぼされる。
自分では、私は神のしもべだ、純真で無垢なキリスト教徒だと思い込んでいても、神の目にはそう映らないかもしれない。神が、あなたの目の前にやってきたときに、「おお、神よ、お待ちしておりました!」と満面の笑みでお出迎えしようとしても、「誰ですか、あなたは?あなたのことなど全然知りませんよ」と冷たく言い放たれ見捨てられることになるかもしれない。だから、そうならないためにも、今一度、自分の心と向き合うことだ。どうせ審判からは逃れられないのだから、自分の心を変える以外にない、腹をくくろう。
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