神でさえ死ぬのは怖い

神でさえ死ぬのは怖い

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コラム
最近は、ユーチューブでキリスト教徒の人たちの聖書解説の動画などを見ているのだが、彼らは終末の時代の自分たちに迫りくる運命を語るとき、非常に淡々と「自分たちが殺されるさだめにある」ことを語る。
聖書には確かに、このように書かれてある、終末の時代には、イエスの側につくものたちは、迫害され、捕らえられ、殺される。これはイエス自身がそう言っている。また、ヨハネの黙示録にも、滅びの者(反キリストの親玉)が、世界を支配し、神に成り代わり、聖徒達と戦って、これに勝つことを許される。
とも書いてある。
私は、「いや、結局なんだかんだ頑張って耐えても、最終的に殺されるんかいな・・守ってくれないのかよ」と思ってしまったのですよ。
ユーチューブで、淡々とそれを話しているキリスト教徒たちは、神のために、信仰のために、死ぬ覚悟ができているんだろうけど、死ぬ気まんまんで、その時を迎えるのは、なんか違うんじゃないか・・と私は思ったのだ。
イエスでさえ、自身が捕らえられ処刑される運命にあると神(本体)から知らされたときは、恐ろしくて悲しくて泣いた。神でさえ死ぬのは怖いのだ。
そしてペトロも、イエスの霊体と遭遇するまでは、ローマから逃げ、追っ手から逃れて生き延びる気まんまんだった。当たり前である。生きようとするのが生き物なのだ。命根性汚く逃げ回るのは、別に恥じゃない。むしろ応援したいし、生きてほしいと思うものだ。
だが、彼らは、死ぬべき時が来たのだなと、この世での自分の役割が、悪魔に捕まって処刑されること、それが最期の役目だと、理解したからこそ受け入れたのであって、自分が心の底からそれを納得したからこそ、自分で死地に向かったわけです。最初から死ぬ気まんまんの狂気のキリスト教徒は、私から見れば自爆テロするイスラム過激派と同じように見えます。
信仰のために、神のために、命をも捧げよと、どれだけ熱心なキリスト教徒に言われても、私としては、まだ納得がいかない。なぜ、死ななければいけないのか、この終末の時代に、信仰のために死んだとしても、犬死ににしかならないのではないか?と思うのだ。のちに生まれてくる魂のため、その模範となるためにというならわかるが、すでにこの世の終わりが近い、それも何十年も先の話じゃなく、私が生きている間に来る気がしている、それほど近い、だからもう、のちに生まれてくる魂なんてほとんどないし、それに完璧に狂った世の中に生まれてくる魂はろくなもんじゃない、だから私は、義のために死んでも犬死に、無駄死ににしかならないと思っている。
「でも、聖書に、キリスト教徒は殺されると書いてあるじゃないか、逃れられないんだよ、運命からは」と思う人もいるだろう。まあ、確かに、聖書の予言は必ず当たる、それは私も理解している。
それでも死にたくないし、殺されたくないし、死は怖い。キリスト教徒は死ぬ運命だと簡単に言ってもらいたくない、死をなめるなと言いたい。恐怖と絶望と苦痛と悲しみの中で、終わりをリアルに感じる、それがどれほどのものか理解してないのだろうか。きっと死をリアルに感じたことが無いのだろう。自分の指の爪1枚はがすことすらできんよ、痛みはリアルだから。なのに自分が死ぬ、殺される、ってことを淡々と語るなよと。
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