イエスが本気で怒ったのは一度、神殿を目の前にした時

イエスが本気で怒ったのは一度、神殿を目の前にした時

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コラム
イエスのいた時代は、今よりははるかに、人の心は腐ってなかったが、それでもすでに、信仰が形がい化していた、それを表すエピソードがある。
イエスが神殿を目の当たりにした時、そこには商人たちが居座って、商売をしていた。神殿に備える用の小銭との両替する者、生贄に備えるようの小動物などを売る者などもいた、これらを見て、イエスは憤慨し、陳列棚などを倒して回った。商人たちは、「いったい何をしやがる!」とイエスに食って掛かった。イエスは「私の父の家を、泥棒の巣にするな!」と怒って言ったのだ。

どうですか、普段、温厚なイエスであっても、神殿がこのような形で使われ、信仰が形がい化したのを目の当たりにした時、その場を荒らしてマジで怒ったわけですよ。読者の中には、「商人が法的には違法ではない、商売をしているのが、何がいけないのか?イエスは横暴だな」と思う人もいるかもしれませんね、ですが、ここで憤慨したのは、信仰がある者と思われるものですら、このように間違った信仰に導かれる土台が築かれている、それがまずいのです。

彼ら商人は、信仰にかこつけて、商売をしているのですよ。本質からずれてますよね、そもそも神殿に、小銭を備えたり、動物の死骸を備えたりすることは、天の父を喜ばせることにならないし、まったく無意味な行為に過ぎないんですよ。でも、この時代の人たちは、何をしたら天の父が喜ぶのか、わからなかったから、このような行為で、信仰を守っている気分になっていました。
この世のすべてのものは、神が作ったものであり、人間が小銭や動物を備えるのは、小学校低学年の子供が、もらった小遣い500円を、親に渡すようなものです、それもともと俺の金やん!って感じです。まあ、でも気持ちは嬉しいけどね、ってやつです。

なので、供え物をすること自体は、無意味であり、神殿に来て、天の父を思って、祈る、それが本来の目的であるはずなのに、このようなことをされたら、
これで「信仰を守った」気分になってしまって、形骸化がより一層すすむわけですよ・・だからイエスは強硬手段に出ざるを得ませんでした。
在日特権を許さない会の人が、強硬手段で、朝鮮人たちが占拠してた公園を取り返したのも、それは誰かがやらなきゃいけなかったからではないですかね。
ここで、これを例に出すのも、あれですが、遺憾である・・けしからん・・だけでは解決しない問題もあるのです。


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