/ 恋のしずく /
雨の匂いがすると、いまでも濡れた葉の青さを思い出す。あの人が、その葉を写していた横顔も。
大学を卒業した春から、もう何年も、私は駅裏の小さな花屋で店番をしていた。間口の狭い店で、雨の日はとりわけ静かだ。切り花は湿気に弱く、長雨がつづくと花弁の縁から茶色く傷んでいく。だから雨の日は、店先のバケツを軒の内へ寄せて、客の少ない時間を、私は花の世話だけで過ごした。
水やりのあとが、好きだった。
霧吹きで葉を湿らせ、バケツに新しい水を張る。しばらくすると、葉先に残った滴が、重さに耐えかねて、ひとつ落ちる。またひとつ。タイルの床を打つその間隔を、私は手を止めて数える癖がついた。三つ数えるあいだに、たいてい次の滴が落ちる。
その人に気づいたのも、雨の日だった。
店の軒先、ちょうど雨のかからない乾いた一画に、その人は立っていた。傘を畳んで、片手に小さな黒い手帳。先の細い万年筆で、何かを描いている。花を買うでもなく、ただ、店先のバケツと手帳を交互に見ていた。
最初は、不審に思った。買わない人。けれど何日かして、彼が描いているのが、雨に濡れた花だと分かった。花弁を伝う水の筋。葉先で膨らんで、いままさに落ちようとする滴。彼は同じものを、飽きずに写していた。
声をかけられないまま、季節がひとつ過ぎた。
彼は雨の日にだけ来た。晴れた日は、一度も。私はいつからか、軒先のいちばん見やすい場所に、雨に強い花を選んで並べるようになっていた。彼が描きやすいように。そんなこと、頼まれてもいないのに。
ある夕方、雨が急に強くなって、彼が慌てて立ち去ったあと、軒先のバケツの陰に、あの黒い手帳が残されていた。濡れないように、私は両手で拾い上げた。返さなければと思いながら、表紙をめくった。見返しに、男の字で名前があった。高木、と。
その先の頁で、めくる手が止まった。雨と、花と、滴。何頁も、何頁も。同じ滴を、彼は描き直しつづけていた。一枚ごとに、滴の形がほんの少しずつ違う。私はそれを、自分が客のために花を選ぶときと同じ目で見ているのに気づいて、手帳を閉じた。
次に雨が降った日、彼は来た。私は手帳を差し出した。彼は驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます。これがないと、困るので」
土砂降りだった。客は、来ない。私は思いきって、軒下のいちばん奥、雨のかからない場所に、丸椅子をひとつ置いた。
「よかったら。立ちっぱなしも、つらいでしょう」
彼は少しためらって、腰かけた。そして、ひらいた手帳をこちらへ向けた。雨に濡れた花が、頁いっぱいにあった。
「昔、硝子を作っていました」
東京の工房にいたのだという。雫の形をした硝子の飾りを、ひとつずつ手で。けれどある時から、バーナーの前に座れなくなった。理由を、彼は言わなかった。私も訊かなかった。ただ、もう二年近く、手帳に雨と花ばかり描いて、硝子には触れていないのだと、それだけを聞いた。
「花は、水をいちばんきれいに見せてくれるので」
それがこの店に通う理由のすべてだという顔で、彼は笑った。笑うと目尻に皺が寄ることを、私はその雨の日にはじめて知った。
私の前掛けの胸には、小さな名札がついている。雨のたびに軒先で向き合ってきたのだから、彼はとうに、そこにある名を読んでいたはずだった。それでも彼は、一度も、その名で私を呼ばなかった。
いつからか、私は天気予報の雨マークを探すようになっていた。花屋にとって、雨は厄介な日だ。花が傷み、客が減る。それなのに、晴れの予報がつづくと、朝、シャッターを上げる手が止まって、私はしばらく乾いた空を見上げていた。雨が降れば、彼が来る。雨の予報の朝は、いつもより念入りに髪を結んでいる自分がいた。前掛けの皺を伸ばし、爪の先を確かめる。誰のためでもない、と思いながら。
来てほしい。来てくれるな。雨雲の予報を見るたび、その二つが私のなかで同じだけ大きくなった。彼は客ですらない。花の一輪も、買ったことがない。だから私には、彼を待つ口実すら、どこにもなかった。待っていると認めてしまえば、その分だけ惨めになる気がして、私は霧吹きを握る手に、わけもなく力を込めた。
ある日、私は思いきって、薔薇を一輪、彼に差し出した。
「描く用に、どうぞ。傷んで、売り物にならないので」
嘘だった。それは今朝いちばんに、傷のないものを選んだ花だった。彼が受け取るとき、その指が、私の指の先に触れる。触れて、すぐに離れる。私はその夜、その指先を、片方の手でずっと包んでいた。包んだところで、もうそこに彼の体温は残っていないのに、離す気になれなかった。
雨のやんだ晩のことだった。
店を閉めていると、彼はまだ軒先にいた。雲が切れて、濡れた舗道に街灯が長く伸びている。
「少し、歩きませんか」
その一言を、私はどれだけ待っていたのだろう。待っていたと気づいたのは、頷いたあとだった。前掛けを外す指が、結び目をうまくほどけなかった。
通りを一本入ったところに、小さな児童公園があった。さびたブランコと、塗装の剥げたベンチがひとつ。彼はハンカチで座面を拭いてから、私を先に座らせた。木の座面はまだ湿っていて、布越しに冷たさが腿に伝わってくる。
頭の上で、葉が雨の名残をこぼしていた。風が来るたび、ぱた、ぱた、と大きな滴が落ちる。ひとつが、膝に置いた私の手の甲を打つ。彼はそれを見て、それから自分の手を、私の手のすぐ横に置く。触れはしない。指一本ぶんの隙間。
あと少し手を滑らせればいいだけのことが、できなかった。詰めてしまえば、この夜が、ただの雨上がりの夜ではなくなる。そうなってほしい気持ちと、いまのままでいたい気持ちが、私のなかで同じ重さのまま引き合っていた。動けば、どちらかが崩れる。だから私は、手の甲に残った滴が夜気に冷えていくのを、ただ感じていた。彼も、動かさなかった。
「硝子をやめた理由、訊かないんですね」
「訊いたら、答えてくれますか」
彼はしばらく黙っていた。街灯に照らされた横顔。
「いちばん上手にできた雫を、割ってしまったんです。落として。それきり、手が動かなくなった」
それだけ言って、彼は笑おうとして、うまく笑えていなかった。
私は慰めの言葉を探した。けれど、見つけたどれも彼の前では軽すぎる気がして、口にできなかった。代わりに、隙間のままだった手を、ほんの少しだけ動かした。指の先が、彼の小指の横に触れる。触れたまま、私たちは前を見ていた。誰もいない公園で、濡れたブランコが、風にかすかに鳴っていた。この小指一本ぶんで、私はじゅうぶんだと思おうとした。これ以上を望めば、たぶん、いまあるこれも失う。
帰り道、彼は店の前まで送ってくれた。別れぎわ、また明日、とは言わなかった。雨の日に、とだけ言って、夜のなかへ歩いていった。私は、次に会えるのがまた雨でありますように、と思った。雨でなければ、彼に会う口実が、どこにもなかった。そんな口実にすがっている自分が、その晩は少しも惨めに思えなかった。
ある雨の日、彼は店先に立つなり、こう言った。
「来月、東京へ戻ります」
水をやっていた私の手が、止まった。葉先の滴が、ひとつ、タイルに落ちる。その音だけが、やけに大きく耳に届いた。
私はいつのまにか、来年の梅雨も、その次の梅雨も、この人が軒先に立っている前提で数えていた。数えていたことに、戻ると言われて初めて気づいた。約束したわけでもない明日を、私はひとりで、何枚も積み上げていたのだった。
工房の人が、いちど訪ねてこないかと言ってくれたのだという。先週、二年ぶりにバーナーに火を入れた。指が震えて、はじめは何も握れなかった。それでも炎を見ているうちに、手のほうが先に動きはじめた。きっかけは、と言いかけて、彼はそこで口を閉じた。
「そうですか」
私の口から出たのは、それだけだった。よかったですね、とも、行かないでください、とも言えなかった。言葉を継ごうとすると喉の奥がふさがって、代わりに目の縁が熱くなる。私はうつむいて、もう濡れている葉に、もういちど霧を吹いた。
彼は最後の日も、雨の日にやってきた。その日、手帳は開かなかった。帰りぎわ、彼はバケツの縁に、小さな包みを置いた。
「あなたに」
ひらくと、硝子の小瓶。なかに、透明な雫の形をした硝子細工がひとつ、細い糸で吊られていた。二年ぶりにバーナーの前で、いちばんはじめに作ったものだという。窓辺に下げると、雨上がりの光を集めて、白い壁に小さな虹を落とすのだと、彼は言った。
それは、葉先の滴の形をしていた。彼が手帳に何頁も描き直していた、あの滴。割ってしまったという、一番の雫。作り直して、彼はいま、私の手のひらに載せている。そう気づいた瞬間、指先が小さく震える。
「あなたが花に水をやるのを、見ていたら。また、作りたくなったんです」
彼はそこで言葉を切って、私を見た。
「澪さん」
それだけだった。続く言葉はなかった。前掛けの名札にある名を、彼が声に出したのは、それがはじめてだった。名前を呼ばれただけなのに、目の奥が熱くなって、私は瞬きをこらえた。瞬きをすれば、こぼれてしまう。
行かないで。喉まで出かかったその一言を、私は飲み込んだ。引き止めれば、二年ぶりに動きはじめた彼の指が、また止まってしまうかもしれない。彼を行かせることが、私にできるいちばんやさしいことだと、頭では分かっていた。それでも、飲み込んだそばから、飲み込んだ自分を悔やんでいた。送り出したい気持ちと、繋ぎ止めたい気持ちは、最後まで決着がつかなかった。
彼は傘をひらいた。雨のなかへ、一歩。軒下のバケツの花が、彼の通ったあとに揺れて、葉先から滴がひとつ落ちる。私はその音を、最後まで数えなかった。数える前に、彼の背中は、雨に紛れていた。
いまも、雨の日になると、私は店の窓辺のその小瓶に目をやる。
晴れた日に、と彼は言った。けれど私は、いまだに晴れた窓辺へそれを下げられずにいる。下げてしまえば、虹が出る。きれいな虹を見たら、私はきっと、彼がもうここにいないことを、ほんとうに認めてしまう。だから雨の日にだけ、硝子の雫を指の腹でそっと拭く。曇ってなどいないのに。拭いたそばから、私の指の跡だけが、透き通って残る。
恋は、ひとしずくずつ溜まって、ひとしずくずつ零れていくものらしい。
零れたぶんは、いまごろ彼の手もとの炎で、どんな雫に形を変えているのだろう。
\ ♪ 恋のしずく \
雨が降る夜は
少しだけ
あなたに会える気がした
駅裏の花屋に
雨が落ちる午後
濡れた葉の先で
光る小さなしずく
あなたは軒下で
黒い手帳を開き
何も言わないまま
花を描いていた
声をかけたら
消えてしまいそうで
私はただ
水を替えていた
恋はしずく
落ちないまま揺れて
好きと言えずに
雨だけが知ってる
近づけば
壊れてしまいそうで
指先だけが
あの日を覚えてる
傷んだ花だと
嘘をついて渡した
ほんとは朝いちばん
選んだ赤い薔薇
触れたぬくもりは
すぐに消えたのに
夜が明けるまで
手をほどけなかった
あと少しだけ
近づけばよかった
でもその少しが
いちばん遠かった
恋はしずく
胸の奥に溜まって
言葉にならず
静かに零れてく
抱きしめたら
明日が変わりそうで
小指の距離で
あなたを見ていた
東京へ戻ると
あなたは雨の中
私は笑えずに
濡れた花を見てた
行かないでなんて
言えなかった夜
優しさじゃなくて
怖かっただけ
硝子のしずく
手のひらで光る
きれいすぎるから
涙も出なかった
恋はしずく
ひとつずつ零れて
好きだったこと
雨だけが知ってる
晴れた窓には
まだ飾れないまま
虹が出たなら
さよならになるから
雨が降る夜は
そっと拭いている
曇ってもいない
硝子のしずく
恋はしずく
零れたあとも
胸のどこかで
まだ光ってる