/ 観なかった映画 /
映画館の前を通ると、ときどき思い出すことがあります。
昔、ある女性と観に行くはずだった映画のことです。
結局、その映画を二人で観ることはありませんでした。
あれは、自分が二十二歳の春でした。
四月に社会人になり、ある部署で働き始めました。
隣の部署には、アルバイトの女性がいました。
なぜか部署ごとに出勤簿がなかったため、彼女は毎朝、自分のいる部署までサインをしに来ていました。
「おはようございます」
「おはようございます」
話すのは、それだけでした。
彼女が出勤簿にサインをして戻っていく。
自分も仕事に戻る。
毎朝、その繰り返しでした。
しばらくして、彼女が自分に言いました。
「バイトやめます!」
辞める理由らしきことも話してくれました。
詳しいことは分かりませんでしたが、どうやら、その部署に居づらくなってしまった事情があったようです。
そして、最後のアルバイトの日。
彼女が挨拶に来ました。
何か言葉を掛けようと思ったのですが、自分の口から出たのは、予想もしていなかった言葉でした。
「今度、映画を観に行かない?」
しかも、何の躊躇もなく言っていました。
続けて、近くのホワイトボードを指しました。
「そこのホワイトボードに電話番号、書いといてください」
彼女も躊躇なく書きました。
同じ部署にいた女性が、びっくりした顔で自分と彼女を見ていました。
そりゃ、そうですよね。
毎朝、「おはようございます」と挨拶をするだけだった二人が、突然、映画を観に行く話を始めたのですから。
今考えても、ありえない展開です。
でも、実際そうでした。
普通なら、ここですぐに電話をするはずです。
ところが、自分が彼女に電話をしたのは、それから一か月ほどたってからでした。
一か月です。
ハアですよね。
ようやく電話をして、観る映画の候補をいくつか伝えました。
すると彼女が言いました。
「そんな映画のどこがおもしろいんですか?」
自分には、意味が分かりませんでした。
「え、違うの。映画を観るんじゃないの?」
映画に誘ったのだから、観る映画を決める。
当時の自分は、本気でそう思っていました。
二十二歳でした。
女心について、考えたこともありませんでした。
結局、彼女がどうしてそんな言い方をしたのか分からないまま、
「では、また」
と言って、電話を切りました。
そして、もう電話をしませんでした。
それから一週間ほどして、隣の部署の男性から電話がありました。
「今、居酒屋で友人と飲んでるので、来ません?」
彼とは、それまで一度も飲んだことがありません。
なぜ自分を誘うのだろうと思いましたが、せっかくなので行くことにしました。
店に着くと、彼は友人と飲んでいました。
その友人が、なんと彼女のお兄さんでした。
お兄さんの話によると、彼女は、自分に大変失礼なことを言ってしまったと、泣きながら話していたそうです。
そのことを伝えたかった。
そして彼女は、
「また映画に誘ってください」
と言っている。
そういう話でした。
そこまで聞いても、自分は、?でした。
結局、その後も彼女を映画に誘いませんでした。
今考えると、本当に何をしていたのでしょうね。
それから、ずいぶん時間がたちました。
そしてあるとき、ふと思い出したのです。
彼女は、映画に文句を言いたかったわけではなかった。
映画に誘われて、電話を待っていた。
ところが、自分は一か月も連絡をしなかった。
たぶん、それだけのことだった。
はっきりと自覚していませんでしたが、自分も彼女のことが気になっていたのだと思います。
そうでなければ、最後の日に、あんな言葉は出なかったでしょう。
映画は、何でもよかったのです。
すぐに電話をして、彼女に会えばよかった。
でも、当時の自分には分かりませんでした。
結局、二人で映画を観ることはありませんでした。
それでも、なぜか今になっても思い出します。
今回は、そんな甘く苦い思い出話しでした。
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