「愛」と"きれいごと"。

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「子どもを愛さない親はいない」という言葉は、一見素晴らしいもののように見えます。腹を痛めて自分の子を産んだ母親、母親とその子どもを守り支えたい父親。そんな家族なら、愛にあふれた平和的な家庭で、子どもも問題なく健全に育つことができるかもしれません。

でもそれらは「こうであってほしい」という大衆の"理想"及び"隔離された暗部"への無知さ無理解さからくる世界、価値観の狭さの表れです。

愛したいけど事情があってうまく愛せなかった親、自分は愛しているつもりになって子どもを思い通りにコントロールしたがる親、そもそも子どもをひとりの人間としてカウントできていない親。

周りから見えないだけで、想像をしたくもないような親子間の闇は、数え切れないほど多くの家庭で繰り広げられている。「家」は、親が権利を所有する監獄です。

子どもは子どもらしい要求や希望を抑圧され奪われ、親に逆らうことも許されず自由を否定され"夢"を壊され、機嫌取りの都合のいい奴隷にならざるを得なくなることもありふれた光景です。


そのような親と家庭のもとに生み落とされた子どもは「それが普通なんだ」と学習し、外の世界の"基準"を知らないまま愛情不足の傷と呪いを抱え、強い生きづらさと苦悩の中自分というものを失い空っぽになっていき、場合によっては自死を選びます。

ケースとしては小学生が自殺を考えることもあるので、本当にそうではない人が"知らないだけ"なんです。

子どもは多くの場合、親から愛されていないと、そのときその場で気づくことはできません。家の中「家庭」は親が神である最初の"宗教"でいて、子どもは洗脳をされて目隠しをされるからです。親にとって都合の悪いことはすべて、親の感情論でもみ消されます。

愛が足りておらず内面が歪みに歪んでしまった当事者に「産んで育ててもらったんだから感謝しろ」「誰が食わせてやってると思ってるんだ」という言葉を、よくぶつけられたものだと。

"何が普通とされるものなのか"という世界観も、"どうされるべきなのか"という判断をするための感覚も、"愛されること"が理解できなくなるのも、そういった子ども側の「狂った部分」はすべて親側の振る舞いの悪影響によるものです。親が子どものことを見ておらず、理解しようとしない、理解しようと思っていないパターン。

じゃあそういう子どもたちは親から人権を奪われ都合のいい、いい子(駒)として自己を失ったまま、この生きづらい世界を歩いていかなければならないのか?自殺しか助かる方法が無いのか?


傷や呪い、感覚麻痺などを回避し抑えるためには、何よりも「早めに気付くこと」なのですが、渦中にある人はそれも難しい。

そして、自分の頭で考えられるようになり、いろんなものを見聞きし、気づけるようになった頃には「もう遅い」ということも往々にしてあります。

子どもの頃に与えてもらえなかった分の愛は、後からでも補完はできますが「当時欲しかった」ものはもうもらえない。歪みを修正することはできる、子どもの頃に望んだものはもう手に入らないのです。

しかし、その子どもをそのような状態にした張本人は、なんの責任をとることもありませんから、すべてを子ども自身が背負っていくことになります。

それでも自死を選ばないのであれば、生きづらさの中で生きていくしかなく、また、そういう人は「繰り返しやすい」ので、いつまでも飢えから脱することもできなくなりがちです。

"もらえておらず不足し続けているのに"、そんな癒されていない中でまた他者に愛を与え続けなければならない状態というのも、人としてつらい状況であることは確実です。頑張っても頑張っても足りていない、努力はしているのに完了する前に崩れ去る。それでも、愛情不足のまま他者を愛していけと。

人は、そもそも愛を与えられていなければ心を壊し、体を壊していくものなので、前提から破綻しているのですが、やらざるを得ないのなら無理をしてでも押し進め続けなければならなくなる。


人はどこかで自分の足りないところを、他人で埋め合わせようと動いてしまう生き物です。それが他者を私利私欲で利用してやろうという目的のものではなく、持ちつ持たれつなどの「助け合い」が根底にあるものなら、後ろめたく感じる必要もないんだと思います。

それで相手は本当に幸せなのか?利己的な考えの振る舞いになっていないか?相手をコントロールしようとしていないか?そう内省し考えることができるなら。自分が受けてきた仕打ちや抱えている傷、呪いなど、それが経験となるので人の痛みや心をより理解し、寄り添えるはずでもあるんです。

一番いいのは自身のそういう"欠け"を治し、修正してからことにあたることですが、それも上手くいかないものです。「愛されなかった自分」というものをひとしきり味わい、抱きしめたら、あとは今後のためにサヨウナラをしておく。

一切皆苦の原因は"執着"です。受け入れていかなければならないものがあるのなら、過去からの大きな荷物は、いつかどこかで置いていかなければ、活動ができなくなってしまう。


今大切な人がいるのなら、重い荷物をおろしてから、丁寧に相手を受け入れていきましょう。誰とも住んでいない、ひとり暮らしなら、ペットを飼うのもいいかもしれません。

同じ屋根の下で「自分以外の別の生き物と生活をする」、そこに寄り添いと、これまで培ってきたものをプラスに働かせることができれば、特に意識はしなくても「愛」はあとからついてきます。

人類は神ではない、不完全であるからこそ、お互いで補い合おうとするところに「愛」というものが生まれるのです。

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