つくるコストが暴落するとき、同じものが安くなるのではない。別のものが生まれる。印刷が安くなって生まれたのは安い写本ではなく、新聞だった。撮影が安くなって生まれたのは安い肖像画ではなく、スナップ写真だった。
動画はずっと高かった。だから数を絞り、丁寧につくり、同じ一本を全員に見せた。30秒のCMという形は、その高さが削り出したものだ。コストが消えれば、その形を保つ理由も消える。
全員に一本ではなく、相手ごと・場面ごと・問いごとに一本をつくるようになる。誰にでも当てはまるよう調整されて、結局誰も動かさなかった「平均的な一本」は、居場所を失う。とっておくための動画ではなく、一度きりで使い捨てる動画。たった一通のメールのために、一人の客のたった一つの質問のために。
そして本題。きれいな動画が当たり前になれば、「きれい」は意味を失う。高い制作費はかつて、その会社に資金と本気があることの証だった。偽装にコストがかかるからこそ信号として効いていた。安くなれば、その信号は死ぬ。整った美しい動画が大量に流れてきて、その大半は素通りされる。
だから希少なものが移動する。希少だったのは制作ではない。語るに値する中身、その人が見る理由、そして効く一本を百本の中から見抜く判断。これは安くならなかった。むしろ氾濫が、それを希少にする。
「安い広告」は的外れな見方だ。制作が制約でなくなったとき、制約になるのはあなた自身だ。