誰かの視線とか、無神経に放たれた言葉が、ときどき思わぬ角度から飛んでくる。
「そんな生活を続けて、贅沢だね。」
「もっと安いのだってあるのに。」
知ってか知らずか、わたしに向けられる誰かの言葉。
わたしの暮らしの表面だけをかすめて通り過ぎていくその言葉たちに、一瞬だけ心がざわついてしまうことがある。
けれど、少し息を整えて自分の手元を見つめ直すと、そこにはいつもの、静かで確かな日常が横たわっている。
わたしにとって大切な台所にあるのは、すごくシンプルな本物の調味料だけ。
自分なりに大切に選んだ、天日塩と味噌と醤油、そして黒酢。
それだけで本当にもう十分なのだ。
かつてのわたしは、みりんや砂糖、手軽に味を調えられるマヨネーズなどの調味料やだしの素を当たり前のように棚に並べていた。もちろん無添加。
けれど今のわたしには、それらはまったく必要のないものになった。
お出汁を引くなら、カサカサと音を立てる煮干しを静かに鍋に浮かべるだけ。たまに昆布も。
それだけで、身体の奥深くに沁みわたるような素朴で豊かな風味が広がっていく。
重たい油も使わないし、砂糖も使わない。
長年つき合ってきたものたちを、ひとつ、またひとつとそっと手放していった。
かつて無意識に手が伸びていたあのお菓子たちも、今では遠い記憶の向こう側にある。
これを意識高い系と呼ぶ人もいれば、贅沢と呼ぶ人もいるのだろう。
でも、わたしからしたらこれは贅沢でも何でもない。
ただ、自分というこの身体と命をちゃんと大切に生きていくために、考えぬいて悩みぬいた末に辿り着いた、ただの「引き算の生活」なのだ。
思い返せば、20代の後半。
あの頃のわたしは、自分の身体が発する小さなSOSや囁きに耳を傾けるなんてこと、本当にこれっぽっちも知らなかった。
流されるままに強い刺激を口に運び、身体を痛めるような習慣を重ねながら、ただ時間を過ごしていた。
手軽で、濃い味付けで、お腹を満たせばそれでよかったのだ。
自分の器はすごく丈夫で、どんなに無茶をしても壊れることなんてないと思い込んでいた(若さゆえの過信って本当に怖い)。
けれどある日、身体が静かに、けれど明確なお知らせを届けてくれた。
「生きていくために、いただくものを変えよう。暮らしを整えよう。」
そう決意して踏み出したのが、わたしの自然派としての始まりだった。
……とは言っても、あの頃はまだどこか緩かったし、食に気を配りつつも甘えを残しながら、だましだまし自分の身体と付き合っていた気がする。
それから時は流れて、40代になった頃。
身体から、2度目の深い問いかけがやってきた。
一度目よりも少し重みのある、命からの静かなメッセージ。
わたしは再び自分の食卓を見つめ直し、手繰り寄せるように暮らしの輪郭を整え直していった。
そして、40代後半。
さらに深く、自分自身と調和するための大きな転換期がやってきた。
愛おしくも少し厳しい試練。
もう、生半可な姿勢では自分の感覚に応えられない。
誤魔化すことも、甘えを残すこともやめて、もっと深く、本気で自分の命の音と対話しなければならないんだと気づかされたのだ。
そうやって、重なり合っていた余計なものをそっと脱ぎ捨てていった。
当然、外食なんてほとんどできなくなったけれど、特別な機会にうなぎ屋さんで食べた人生初の白焼きは、驚くほど澄んだ美味しさで胸に響いて、ちょっと泣きそうになった。
かつて当たり前だと思っていたものを削ぎ落としていく作業は、苦痛や我慢というより、自分の中に眠っていた本来の感覚が研ぎ澄まされていくような、感覚のアップデートに近かったと思う。
こうしたいくつもの節目を経て、わたしの暮らしは今の究極にシンプルな食卓へと辿り着いた。
そして今では、土の力を宿したシンプルな玄米ごはんが、なによりのごちそうになった。
そこに、ひとつぶの梅干しが添えられたらもう最高。それだけで十分幸せなのだ。
人生の波を何度も何度もくぐり抜けて、今のわたしがいる。
身体の声に耳を澄ませるたびに深まっていったこの暮らしは、今やわたしの一部になっていて、呼吸をするのと同じくらい自然なものになった。
何かを無理に耐えているわけじゃない。
自分の感覚にどこまでも素直に従った結果、手元に残ったのが、いまの天日塩と味噌と醤油、そして黒酢だけの食卓だったというだけなのだ。
だからこそ、自分の価値観だけで誰かを否定したり、決めつけたりする声に触れると、少しだけ切ない気持ちになる。
安さや効率だけが、正解の基準ではないはずだ。
もちろん、誰かがどんなものを食べて、どんな暮らしを選ぼうと、それはその人の自由だし、尊重されるべき領域だと思う。
同じように、わたしという人間が自分の身体や暮らしを守るために選んだこのささやかな選択も、誰かに批判される筋合いはないはずなのだ。
自分の基準や価値観という物差しをそのまま相手に当てはめて、そこからはみ出た部分を「おかしい」と否定してしまうのは、なんだかすごく寂しいことだなと思う。
目に見える表面だけで、その人が重ねてきた時間や葛藤の背景を知ることはできないのだから。
わたしがなぜ、今まで親しんできたものを手放したのか。
なぜ、シンプルな調味料だけで料理を作るのか。
その裏側には、幾度も自分の心と体に向き合い、考えすぎて疲れるくらい模索し続けてきた長い時間がある。
誰かには誰かの、わたしにはわたしの、辿ってきた道がある。
違いを否定するんじゃなくて、ただそうなんだねと静かに置いとおけるような余白が、人との間にもっとあればいいのに、と思う。
まあ、それも含めて今のわたしに必要な学びなのかもしれないけれど。
今日も、台所で小さな煮干しから静かに出汁を引いている。
鍋から立ち上る湯気の中に、素朴で優しい香りが広がっていく。
わたしにとっての豊かさは、たくさんのものを所有することでも、誰かに誇ることでもない。
自分の身体が喜び、心がすっと整う感覚を、毎日の暮らしの中でちゃんと味わうこと。
世の中の求めるサイズや基準に自分を無理に合わせる必要はない。
自分に馴染む麻の服を羽織るように、自分の身体が求める選択を、これからも静かに重ねていきたいと思う。
削ぎ落としたその先に残った、確かな光を抱きしめながら。