400年、渡していくということ〜宇治・朝日焼に思う

400年、渡していくということ〜宇治・朝日焼に思う

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コラム
本日は、少し違った視点の内容を。この7月18日、京都ホテルオークラ岡崎別邸で、イベントを企画した。京都、宇治の朝日焼十六世窯元である松林豊斎さんによるレクチャーと、少人数でのランチ会という趣向だった。

実は私は7月12日に母を亡くしたばかり。正直そんな事情なので、行くべきか...とても迷った。しかし、結果、行ってよかった。

祇園祭、山鉾巡行の翌日の京都は、むせかえるような湿気と暑さ。だが、ホテルに足を踏み入れると、窓の外には岡崎の庭園が広がり、静かな午前だった。それだけで、何だか心が癒された。

松林さんとは、実は10年以上前からご縁がある。GOONという、若手の伝統工芸家6人が集まって始まったプロジェクトを取材した時のことだ。その後、宇治の朝日焼にも伺い、窯を見せていただいた。とはいえ、その時は駆け足の取材の一つに過ぎなかった。今回のように、松林さんご自身の言葉で、これほど深いところまで話を伺ったのは、実は今初めてだったように思う。仕事として関わりながら、正直、レクチャーの内容に、企画者としての立場を忘れて聞き入ってしまった。

10名という少人数だったからこそ、松林さんの言葉一つひとつが、まっすぐこちらに届いた。マイクを通した講演ではなく、ほとんど対話に近い距離感。だからこそ、後から思い返しても、あの場の空気ごと記憶に残っている。

400年、続いているという時間の感覚

朝日焼は、400年にわたって同じ家系で続いてきた窯だ。今、陶芸に使っている土は、宇治の山から50年前に採取されたそうだ。50年前といえば、私が生まれる前後。その土が、今も当時のまま眠り、順番を待っているとは。

ファッション業界で長く働いてきた私にとって、この時間の感覚には正直、戸惑いを感じた。私たちの業界では、シーズンは半年で入れ替わる。去年の在庫は「型落ち」と呼ばれ、セールで叩き売られる。50年後どころか、来年の今頃には、誰もその服のことなど覚えていない。土を50年寝かせるという発想そのものが、私たちの業界には存在しない時間の単位だった。

デザイナーだった頃、私は「今シーズンの旬」を見極めることに全神経を注いでいた。半年先を読み、半年後には忘れられる。その繰り返しの中で、いつしか「長く残ること」自体を考えなくなっていた自分に気づく。松林さんの話す50年という単位は、私にとって、ほとんど想像を絶する時間だった。

だが松林さんの話は、単なる「伝統を守る美談」では終わらなかった。400年続く家業でありながら、松林さんご自身は、新しい表現や技法に果敢に挑戦し続けているという。守るだけでは、続かない。攻めるだけでも、続かない。その両方を同時に引き受けている人の言葉には、迷いのない強さがあった。私が長年「編集」という言葉にこだわってきたのも、実は同じ発想だ。何もかもを新しくするのではなく、何を残し、何を更新するかを見極める。その判断こそが、作り手の哲学そのものになる。

そしてもう一つ、印象に残ったのは、朝日焼は暖簾分けをしないということだ。技を学んだ人が外に出ることはあっても、「朝日焼」という名跡だけは、一本の線として、次の窯元にだけ渡していく。効率だけを考えれば、非合理な仕組みかもしれない。名を広げれば、生産量も知名度も、もっと早く広がったはずだ。だが、その非合理さの中にこそ、400年という時間を保ってきた理由があるのだと思う。広げることより、濃度を保つことを選んできた家系。ビジネスの効率という物差しだけでは、決して測れない選択だ。

窯入れの後、先代は旅立った...

レクチャーの終盤、松林さんは、先代であるお父様の話をされた。お父様は癌を患い、余命半年という宣告を受けた中でも、ものづくりを続けられていたという。病を抱えながら、それでも土に向かい、窯に向き合う。普通なら、体力も気力も、まず自分自身のために使いたいはずだ。それでもなお手を動かし続けたということ自体に、すでに何かとても尊いものを感じた。

松林さんは、その様子を半年間、そばに寄り添い見守り続けた。その想いは、経験した者にしか分からないだろう。日に日に弱っていく父の姿を見つめながら、それでも土に向かう手を止めない父を、ただ支え続けるしかない時間。その胸の内は、想像するだけで張り裂けそうになる。

そして、最後の窯入れ。松林さんは、その窯入れをお父様と一緒に行った。だが、その窯から作品が焼き上がる仕上がりを、お父様は見ることなく、旅立たれたという。窯に火が入り、器が形を成していく間に、お父様の命の火は消えていった。その二つの時間が、同時に進んでいたのだと思うと、言葉がうまく出てこない。

松林さんは、その時の窯の動画を、私たちに見せてくれた。

その瞬間、胸が熱くなった。私自身、7月12日に母を亡くしたばかりだ。まだ少ししか経っていない。松林さんの話が、自分の体験と重なって、涙が出た。人前で泣くつもりなど、まったくなかったのに。だが、涙の理由は、悲しみだけではなかった。同時に、羨ましいとも思った。自分でも、少し戸惑うくらいの感情だった。

普通の人間は、死んだら、そこで終わる。私の母も、私という娘の記憶の中には残るけれど、母がやってきたことそのものが、形として続いていくわけではない。母の人生は、母一代のものとして、静かに閉じていく。だが松林さんのところは違う。お父様が仕上がりを見ることなく手放したものを、松林さんが受け取り、窯から出し、次の世代へと渡していく。個人の生は終わっても、営みそのものは、400年間、そしてこれからも続いていくのだ。

それは途方もない重責だろう。だが同時に、これほどかけがえのない継承のかたちも、そうはないと思う。

ものづくりとは、渡していく行為だ。

ファッション業界にいた頃、私たちは「今シーズン売れるかどうか」だけを見ていた。誰が、どんな覚悟でその服を作ったかより、数字がすべてだった。トレンド予測データが「今年の色」を決め、各ブランドが一斉に同じ方向を向く。そこに、渡していくべき何かは、そもそも存在していただろうか。

松林さんの話を聞きながら、私はずっと、自分自身の仕事のことを考えていた。ブランドを編集するという仕事は、突き詰めれば、誰かのものづくりに込められた文脈を掘り起こし、次の誰かに手渡せる形にする仕事だと思っている。だが果たして、私はこれまで、松林さんのように「渡していく」ことを本気で考えてきただろうか。今シーズンの数字を追うことに、どれだけの時間を使ってきただろうか。記者として、ブランドエディターとして、いくつのブランドの「今」を語ってきた。だが、その中のどれだけを、次の世代にまで残る言葉として書けていただろうか。正直、自信を持って頷けない。

400年続く家に生まれなくても、渡していくことはできるはずだ。一つの記事、一つの言葉、一人のクライアントとの仕事。それが誰かに渡り、続いていく。その意識を持っているかどうかだけが、私たちとファッション業界を隔てているのかもしれない。効率を優先し、暖簾を広げることばかりを考えてきた業界と、暖簾を守り抜いてきた家。どちらが正しいという話ではない。ただ、私はこれから、後者の意識で仕事をしていきたいと、あの窯の動画を見ながら思った。

仕上がりを見ずに旅立ったお父様の哲学を、窯から出し次へ伝える。そういった覚悟を、私は持てているだろうか。自分への戒めも込めて、そう問い続けたい。

画像提供=朝日焼









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