「生きるということ」慶應義塾大学環境情報学部2023年

「生きるということ」慶應義塾大学環境情報学部2023年

記事
学び

(1)問題



文献1~3は「生きる」とはどういうことかを問うもの,文献4はそもそも科学とはどういう営みかを論じるもの,文献5~6は「生きること」に向きあう学問的態度のありかたを問うものです。文献6からは,文献1~5の重要な論点を総合的に含む文章を抜粋しています。6つの文献を熟読し,以下の設問1~6に答えてください。


設問1:

文献1と文献2に通底することを論じてください(150字以内)。


設問2:

文献1と文献3に通底することを論じてください(200字以内)。


設問3:

文献4のいう定性的研究の重要さを,文献3の著者の主張と関係づけて論じてください(250字以内)。


設問4:

文献2と文献5に通底することを論じてください(150字以内)。




設問5:

文献5が論じる「生きることに向きあうための学問的態度」は,文献4の主張する定性的研究のやりかたにも相通じるものがあります。それについて論じてください(250字以内)。


設問6:

 Aさんは建築を専門とする大学院生で,これまで室内環境,特に断熱や熱対流のシミュレーションの研究に従事してきました。Bさん(50代前半)はAさんが所属するサークルのOBです。数年前の同窓会でAさんとBさんは知り合い,その後,親交を深めるようになりました。


 Aさんは,Bさん夫妻が最近東京郊外に家を建てたと聞きました。お話を伺ったところ,最寄り駅までバスで15分の閑静な住宅地で,周辺環境は,一級河川の支流がさらに枝分かれするように丘陵地帯に入りこむアップダウンの多い地形をなしているそうです。近所には野菜畑を営む農家もたくさんあり,3~4km歩けば里山風景や未開拓の自然山林もあります。なんでも,Bさん夫妻は数年前にひょんなことから文献1~3に出逢って感銘を受け,それまでの都心のマンション暮らしとは環境が異なるこの地に家を建て,移り住むことにしたというのです。

 このような環境のなかで暮らすのは初体験なので,自分たちらしい住まいかた・暮らしかたを模索しつつあるとのこと。Bさんは,最近,とある文学賞にノミネートされ注目されている小説家です。Bさんの妻(50代前半)は彫刻家で,アトリエとなる小屋を近くの農家から借りたそうです。二人とも基本的に在宅ワークです。

親しい知り合いのそんな話を聞くと,建築の学生として居てもたってもいられません。Aさんも文献1~3を読んで同じく強い感銘を受けました。さらにその過程で文献4~6にも出逢いました。6つの文献を俯瞰し,自身の研究にひきつけて考えた結果,研究のやりかたを見直そうと決心しました。これまでは室内環境だけに目を向けた研究をしてきましたが,より広い視座や多様な着眼点からひとの住まいかた・暮らしかたを探究する必要があると痛感したのです。

以下の2つの問いに答えてください。


設問6(a):

この新しい土地で,Bさん夫妻の住まいかた・暮らしかたはどのようなものになりつつある,あるいはこれからなっていくとあなたは考えますか? できるだけ具体的に記述してください(300字以内)。


設問6(b):

Aさんは,Bさん夫妻の住まいかた・暮らしかたがどう変化していくのかに興味を抱き,住まいかた・暮らしかたのありさまを詳細に調査させていただく了承を得ました。ただ,とても難しい研究になりそうであるとAさんは直観しています。Bさん夫妻が触発された文献にAさんも触発されたということもあって,Bさん夫妻がどのような住まいかた・暮らしかたをつくりあげていくのかについて,Aさんは共感的に想像することはできます。しかし,Bさん夫妻の住まいかた・暮らしかたが実際にその通りになると仮定して研究方法を計画するわけにもいきません。Bさん夫妻の住まいかた・暮らしかたのありさまを調査するために,Aさんがどのような工夫を盛り込んだ研究方法を考案するであろうとあなたは考えますかつできるだけ具体的に記述してください(500字以内)。


文献1:土井善晴,中島岳志著『料理と利他』(ミシマ社:2020)(補足:本書は料理研究家の土井氏と政治学者中島氏の対談形式で展開します)


人の暮らしのなかから美しいものができてくる(p.96~98の一部を抜粋)


中島 私が土井先生のものを読ませていただいたときに,やはり家庭料理をはじめるきっかけ,お父さまから家庭料理の料理学校を継ぐようにと言われたときに,最初は「料理人になろうとしているのに,なんで家庭料理やねん」と思ったと。そのときに,京都で河井寛次郎の民藝の世界に出会われて,「家庭料理こそが民藝である」という世界が,土井先生の料理観を下支えしているのではないかと思って,そのお話も前回させていただきました。


土井 家庭料理と民藝というものは,人の暮らしのなかから美しいものができてくる。なにも美しくしようと思って生活しているんじゃないけども。実際に京都の河井寛次郎記念館に行ったら,なんとも美しいものに,じかに触れることができる環境があって。美しい暮らしというものが,民藝のような,意識はしないけれども一生懸命仕事するという河井寛次郎の生活ぶりのなかに生まれてくる。これって家庭料理も同じじゃないか,と考えたわけです。


中島 民藝という言葉自体は,柳やなぎ宗悦むねよしがつくった言葉で,柳,河井寛次郎,濱田庄司は民藝運動の重要な担い手たちです。彼らが考えたことの根底には,日本の仏教,とくに浄土教の世界があって。今,土井先生がおっしゃられたように,美しいものをつくろうとするから美が逃げていく。それが自力という問題です。それに対して「用の美」。人間が器になったときに,まさにそこに他力としての美がやってくる。この浄土教の世界と,土井先生がおっしゃる「いじりすぎない」とか,「力まかせの料理はやめておこう」という世界観が深く結びついているんだなと思った次第です。


土井 まったくですね,料理というのは美の問題なんです。西洋でも,料理は芸術になりたかった。実際にそのような料理も生まれている。日本料理というものは芸術とはまた違うんですけれども,とにかく美の問題であるということには違いないんです。食材を選ぶとか,こういう夏野菜ひとつをとってみても,常に「ああ,ええ感じやな」とか「きれいだな」とか,これは目に見えてますでしょ。そういうところから美の問題が関わっているんだということです。そうするとね,なにからなにまで楽しくなってくる。和食の「和あえる」と「混ぜる」は違う(p.101~104の一部を抜粋)




土井 (前略)和食では「和物あえもの」という料理があります。だから,和食では混ぜることを,和えると言います。和えると混ぜるは違います。料理の基本で,和物は和えたてを食べるということがあります。和食には,精進料理で「和え混ぜ」というのがあるんです。ぜんまいを薄味で煮たものと,きゅうり揉もみとか,油揚げの焼いたものとか,胡麻と豆腐をつぶしたものをそのまま鉢に盛り込んで,自分で和えて食べるというお料理です。それは,『料理を食べる人に委ねているのです。これは理にかなってて,それがいちばんおいしい。和えたてだから。(中略)


中島 そこに入れる野菜は,やはり季節のものとか旬のものになるんですか。


土井 それは自由です。じゃがいもと,きゅうりとか歯切れのあるもの,そしてタンパク質のハム,にんじんは彩り,季節感はとうもろこしで出ています。春だったら,ここにアスパラガスや空豆を少し入れる。枝豆を入れたら秋っぽくなる。季節感で,それぞれ一年中できると思うんです。器に盛ったときにいちばんおいしい状況をつくる(p.104~105の一部を抜粋)


土井 食卓であればこのガラス鉢のままでいいですが,これを盛ろうとなったら,また混ぜることになるじゃないですか。だから手前で止めておいて,器に盛ったときにいちばんおいしい状況をつくりたい。それから,器をどっちにしようか。夏の盛りだったら透明のガラスでもいいけれども,ちょっと色ガラスを使ってもいい気分じゃないか。このへんがね,季節感と器との関係性を楽しむことになってくる。……こっちのほうがいいな……(ランチョンマットの選択)。こうやっていろんなことを考えるんです。サラダと器の関係性,器と背景にあるマットとの関係性。常にはたらきかけ合ってるんですよ。これが美の問題ということです。食材は頭じゃないところを使ってどんどん選ぶ(p.108~111の一部を抜粋)

土井 素材を選ぶのは,自分が素材を見て,味を予測しているわけですね。そしてそれを買ってくる。男の人も「お父さんが買ってきたきゅうりおいしいね」と言われたら,鼻高々になるでしょう。「そやろ,俺の目に狂いはないんや」と。料理のなかには予測が入っているんです。そこで大事なポイントは,お父さんは,なんでそれがわかるようになったのか?なんです。子どもはまだそれがわからない。お父さんにはわかる。これが,料理をすることの大きな意味のひとつですね。


中島 そうですね。


土井 お父さんは,無意識でも経験の蓄積がものすごくなされていて。自分の無限の経験と今日の前にあるものから受ける刺激を重ねて悟性がはたらくんです。感性は感覚所与の違いを発見する能力ですが,悟性は経験と重ねて確信的にわかること,それが予測です。これはだいたいこんなものや,と,見たらわかる。触れなくても,固さまで,おいしさまでわかる。そういうものが,食べる経験で,体の神経のどこかで定数として残る,それが物を判断する基準になるんです。基準や比較対象がなかったら,なにも判断できない。判断するトレーニングを,朝,昼,晩,ずっと子どもは大人になるまでやるんです。これが非常に重要な問題として,家庭料理に含まれているんです。でもその経験は,自然と自分のあいだにある。自然と人のあいだにある。いつも変えられるのが本物です(p.111~112の一部を抜粋)


中島 土井先生がおっしゃっていることで非常におもしろかったことは,献立というのは料理名から入るのではないと。その日の天気,気分,体調,素材から今晩なにをつくろうかというのを考えていく。服を選ぶように,お料理を決めていく。お店で実際に素材を見てきれいだなと思ったら,そこからお料理を考えていく。私たちはどうしても,このレシピでこれをつくるんだということで身構えて,それでものを買いに行くと見えなくなるものがあるかもしれないですね。

土井 先に結果を考えていると,自分の感覚所与をほとんど使わない。結果がレシピのようなもので決まっているとしたら,それは料理をしていることになるのかということですよね。私でさえ自分のレシピを利用すると,感覚を使わなくなります。なにかに頼った瞬間に自分はサボリだす。自分のレシピであるとしても,レシピどおりつくったとしたら,それは七〇点以上にはならない。自分の感覚を使いながらつくると,一〇〇点,あるいは一二〇点のものが出てくる可能性もある。


中島 先生は,レシピはあくまでも目安だと。雨の日と晴れの日で入れる分量は違ってくるでしょう,とおっしゃっていて,それを感じる力というんですかね。


土井 さっきも言った美の問題というのが,ちょうどよい加減というものです。それは自分ひとりが決めるんじゃなくて,空を見上げて,今日のお吸い物は塩で決めるのか醤油で決めるのかという,これを感じて,その気分で味を決めるわけです。これはいつも違うんですよ。だから,プロの料理人は毎日同じ仕事ができる,ぱっと握ったら米粒を何粒握れる。というふうに言うけれど,それがいいんじゃなくて,いつも変えられるのが本物です。いつもちょうどよく,相手の顔を見て,「ああ,ちょっと……」ということで握りを変えるとか,水加減を変えるということが,なにか頭で考えるのではなくて,「想う」ことにすごく大事なことがあるんです。


中島 それが,土井先生の料理が自力の料理じゃないというんですかね。力まかせに料理をやるのではなくて,今日のテーマなのですが,自然に沿うということですね。自然のほうからやってくるものとどう呼応するのか,という人間のあり方ですね。よく先生は「だいたいええ加減でええんですわ」とおっしゃっているんですが,この「ええ加減」というのは,実はすごく前向きでポジティブな,すごく哲学的な,ハーモニーという意味ですよね。




土井 オー,うれしい。ありがとうございます。


文献2:鷲田清一著『生きながらえる術』(講談社:2019)(p.107~113の一部を抜粋)


① 三〇年以上も前のことになろうか,のちに舞踏集団・白虎社のダンサーになる青山美智

子さんが,入圏希望書にこんなふうに書いていた。


② 最近自分の体が,とてつもなく萎縮しているのを感じます。東京で生活するようになって特にひどくなったと思うのですが,気がついてみたら二十一歳にもなって自分の体ひとつまともに思うように動かせず,声さえ出せず,まったくのでくのぼうになってしまっているのです。色々なものを恐れたり,いろんなことに迷ったりして,すっかり萎縮してしまって,何一つうまく表現できない自分の体に気がついて,苛立っていたのです。


③ 高度消費社会というものに多くの人たちが浮かれていた時代の証言である。じぶんという存在の(萎縮),つまり「自分の体ひとつまともに思うように動かせず,声さえ出せず、まったくのでくのぼうになってしまっている」ことの感知は,それからうんと時を経て,別のかたちで多くの人たちに共有された。二〇一一年三月,東日本が大地震に見舞われた直後,「東京」で暮らす人びとは,移動も思うにまかせず,飲料水や食料や電池の確保もかなり困難になって,生活を一から自力で立て直すことすらおぼつかなくなっているじぶんに愕然としたのである。


④ 人は家族や仲間とともに生きのびてゆくために,上を耕して米や豆や野菜を作り,それに使う道具を作り,身につける衣装を作り,物を運ぶ車や船を作り,雨風と夜露をしのぐ家を造ってきた。体を使って何かを作ること,ずっとここに,生きることの基本があった。


⑤ が,近代の工業社会は,この「作るヒト」を「買うヒト」に変えてゆく。「作る」手間を省いて,作られたものを「買う」ほうに身を移していったのだ。生活の手立てのほぼすべてを製造と流通のシステムに委ねることで,サービスの購買者もしくは消費者へと,である。


⑥ 便利である。より快適になったが,そうしたシステムに漫然とぶら下がっているうち,「作る」という,生業の基本ともいうべき能力を損なってしまった。体を使い何かを作るのではなく,金を使い物とサービスを買うのが,生活の基本となった。そのことで体は自然とのじかのやりとりを免除され,いわば仮死状態に置かれることになった。


(中略)


⑦ 宮城県で生まれ育った山内さんは,東北には「ケガチの風土」があると書いている。地元の人たちは「ケガヅ」と言うそうだ。ケ(日常)の暮らしに欠くことのできない食糧が欠けがちであるという意味である。長く冷害や日照り,大雪や津波にくりかえし苦しみ,飢饉の不安に苛まれてきたこの風土にあって,土に雨水がしみ込むことをじぶんの体が「福々しく」膨らむことと感じる,そうした土や海と人とのつながりへの深い思いを,この地の人びとは分かち持ってきた。いいかえると,土や海が傷ついたなら,それをちゃんと回復してやることが,そこで暮らしをたてていくために,なにより大事なことだった」。そういう人たちであれば,土や海の汚染もわが痛みとして感じたはずだというのである。


⑧ あの原発事故による放射能汚染は,その東北という地では,農業や漁業,つまり人と土や穀物・野菜との,人と海や魚とのつながりを断ち,一方,「東京」という地では,人びとに食糧の安全に神経をすり減らさせることになった。(中略)傷つけられた土や海の「痛み」をじぶんの体のそれとして感じられない,その「鈍感」を思い知らされたのだった。「自分のからだが土にも海にも,そしてコメにも,いもにもなりうるという感覚」が「わたしたちには,ない」と。


⑨ おなじことはじつは「作る」ことにおいても生じていた。「作る」は「ものづくり」へと,純化されて,「創る」こととして神棚に上げられていった。そう,匠の技として,道具が工芸品や美術品にまつりあげられていった。用いられるはずのものが鑑賞されるものになった。道具は,用いられるものとして,人びとの繋がり,物たちの連なりに根を生やしていたはずなのに。こうして「作る」こともまたわたしたちから遠ざかっていった。


(中略)


⑩ 言葉こそちがえ,おなじこの違和感に向きあうのが,美術家の鴻池朋子さんだ。彼女は著書『どうぶつのことば』(羽鳥書店)のなかで,震災後,じぶんがこれまで取り組んできた〈芸術〉をもはや「自由」や「自己表現」といった悠長なことばでは語りえなくなったという。〈芸術〉の現在を,知らぬまに仮死状態になっていた〈動物〉としてのじぶんと切り離せなくなったと。そして猟師の世界にふれ,猟師の顔がときに動物のそれに見えることに衝撃を受ける。猟師たちは獲物たちがみずから罠にかかりにやって来てくれたかのように話す。それは「まるでどこかの位相で猟師と動物が事前に連絡を取り合っているかのよう」だったと。


⑪ それ以後,動物を絵のなかに寓意的に配して満足していたころのじぶんを見限り,食うか食われるかの〈動物〉の世界にじぶんも〈動物〉としてじかにつながっている,そういう連続のなかにこそ,アートの立ち上がる場所があると思うようになった。


(中略)




⑫ リアルの岩盤はわたしたちの身体の内にある。このリアルは,システムという装置や媒体を介してではなく,自己の身体と他の生きものや人たちのそれらが生身であいまみえ,交感するなかで,時間をかけて形成されるものだ。そう,複数のいのちがぶつかり,きしみあい,相互に調整しあうなかで,リアルは立ち上がる。それを岩盤に社会のリアルも生成する。それが損なわれた……。


⑬ 文献3:穂村弘著『はじめての短歌』(河出書房新社:2016)(補足:本書は穂村氏が選者をする日経新間の短歌欄に掲載された短歌を取り上げ,解説するものです。普通ならついそう詠んでしまいそうな改悪例を敢えて穂村氏が作り,それと比較することによって選出作品の秀逸さを論じています)(1)p.44から始まる一節を抜粋


① 鯛焼の縁のばりなど

 面白きもののある世を 父は去りたり 高野公彦


② ほっかほかの鯛焼きなど

面白きもののある世を父は去りたり 改悪例1


③ 霜降りのレアステーキなど

面白きもののある世を父は去りたり 改悪例2


④ お父さん死んだんだよね。で,そのお父さんの死を悼んでいる歌で,「鯛焼きの縁のばりみたいなものを,もうおやじは食えなくなっちまったんだなあ」っていう。


⑤ 奇妙な歌ですね。


⑥ 普通,多くの人が作るのは,改悪例1のような歌ですね。「おやじ酒飲めなかったけど,鯛焼き好きでよく食ってたけど,もう食えなくなっちまったなあ」とか。


⑦ だけど,たまにこの改悪例2のような歌を作る人がいる。


⑧ どういう人かというと,昨日まで営業部長をやっていたけど,定年になったから短歌でも作ってみようかなと思って短歌を作り始めたおじさん。


⑨ 昨日までいた世界の価値観に,まだひっぱられているのね。霜降りのステーキがいいものだという。


⑩ いや,霜降りのステーキは実際にいいもので,ぼくも二者択一でこの中から選ぶなら,霜降りのステーキを選ぶけれども,それは生身だから選ぶんであって,短歌的には,それはぜんぜん違う。


⑪ だから社会的には取引先のお客さんに向かって,「霜降りのステーキがおいしい店があるんですけど,今度行きませんか?」って言うのはOK。


⑫ 「鯛焼きのおいしい店があるんですけど,これ差し入れです」と。これはこれでなんかいい感じですよね。


⑬ でも,「ちょっと残業のお供に」とか言って差し出して,相手が包みを開けるとなんかせんべい状のものが入っていて,「これせんべいだと思うでしょ。でもばり。鯛焼きのばりなんです,ばり」とか言うと,もうかなり出世は望めない。会社をやめて詩人になったってうわさを開くと,さもありなんって思われる。


⑭ だからみんな,わかってる。このベクトルは。


⑮ ということは,短歌においては,非常に図式化していえば,社会的に価値のあるもの,正しいもの,値段のつくもの,名前のあるもの,強いもの,大きいもの。これが全部,NGになる。社会的に価値のないもの,換金できないもの,名前のないもの,しょうもないもの,ヘンなもの,弱いもののほうがいい。


⑯ そのことを,短歌を作る人はみんな経験的によく知っているので,鯛焼きのばりみたいなものを,短歌に詠むわけです。


⑰ ぼくくらいの年齢の男性が,住宅地にしゃがんでじーっとしていますと,三十分くらいすると,おまわりさんが来る。多分,誰かが通報するんですよね。


⑱ 「平日の午後になんか中年の男性が道にしゃがんでいる。なんにもしていないんです」「なんにもしてない! ふむ,怪しい」みたいな。


⑲ それでおまわりさんが来て,とてもていねいな口調で「何をなさっているんですか?」と。


(中略)


⑳ それで「いやあ,コンタクトレンズ落としちゃって」って言うと「それはお困りですね。本官も一緒に探しましょう」みたいになる。一秒ですよ,一秒。「コンタクトレンズ落として探しています」って言えば,おまわりさんも超オープンマインドで,味方になってくれる。


21 でもここで「ダンゴムシを探しています」って言うと相手の顔が曇りますね。「ダンゴムシ……」っていう感じに。そこで私が名刺を出して,なんとか大学の昆虫学の教授であると名乗ると,一応いい感じになります。「それは大変ですね」とか。




22 でもコンタクトレンズのときほどすっきりしない感じね。コンタクトレンズだと身元も開かれずにすっきりしてもらえるのに,ダンゴムシだと,大学の偉い教授だという名刺を渡しても,一回くらい振り返って見られたりしますね。「ダンゴムシ」っていう感じね。


23 で,最後に「蝶々の唇を探しています」と答えるパターン。これはもうNG。完全にNG。それで「ちょっと署まで来ていただけませんか?」みたいになったときに,「いや,私は本を出している歌人なんだ」と言ったりしてもダメですね。


24 ということは,「歌人とか詩人とかいうことは,かなりNGだ」ということなんですよ。


25 読者とか講演会の参加者とかは,だいたいぼくの味方でしょ。だから人前でも先生みたいな感じでいられますけど,一歩,家や会場の外に出れば,社会的にはかなりNGなんですよ。いつも蝶々の唇のこととか考えているわけですから。


26 だけど,ぼくは今日までそれで生きてきたんです。


27 今の話で,じゃあコンタクトレンズってなんなのか。


28 コンタクトレンズ探すために生まれてきた人とか,コンタクトレンズをはめるために生まれてきた人なんて,いないんですよ。


29 それなのにコンタクトレンズがそんなに強いカードである理由は何か? 


30 それは,コンタクトレンズはツールだから何かするためには,何をするためにも,コンタクトレンズはなきゃ困るからってことなのね。


31 つまり「生きのびる」ためにはそれがないと困ると,万人がそう思っているものだから。メガネとかなんでもね,ないと困るもの。お金ですよ,究極的にはね。


32 でもぼくらは,「生きのびる」ために生まれてきたわけじゃない。では何をするために生まれてきたのか。


33 それはですね,「生きる」ためと,ひとまず言っておきます。


34 言っておきますけど,それは「生きのびる」ための明確さに比べて,不明瞭なんです。「生きのびる」ためには,ご飯を食べて,睡眠をとって,お金稼いで,目が悪ければコンタクトレンズを入れて……しなきゃいけないでしょ,はっきりしているよね。だけど「生きる」ってことは,はっきりとはわからない。一人ひとり答えが違う。


35 しかも世の中には,「生きのびる人」と「生きる人」がいるわけじゃないしね。


36 全員がまず「生きのび」ないと,「生きる」ことはできない。ぼくらの生の構造として,第一義的には,生命体としてサバイバルしないといけない。その一方で「生きのびる」ために「生きる」わけじゃない。けれども,じゃあなんのため? と言われるとわからない。


37 (3)p.54から始まる一節を抜粋


38 「煤」「スイス」「スターバックス」「すりガラス」


39 「すぐむきになるきみがすきです」 やすたけまり


40 「煤」「スイス」「スターバックス」「すりガラス」


41 「すてきなえがおのきみがすきです」 改悪例


42 これはしりとりですね。しかもただのしりとりじゃなくて,「す」を「す」で返す非常に意地悪な形ですね。そしてしりとりの形をした短歌。


43 改悪例のほうがダメな歌。原作のほうがいい歌。なぜかというと,改悪例のほうが社会的な価値に結びついているから。


44 ここでいう社会的な価値とは何かというと,「すてきなえがお」。その証拠に,写真撮ったりするとき,笑えって言われるじゃないですか。写真の中の人はほとんど笑ってますよね。それは「社会的に承認された価値」っていうことなんです。


45 それが短歌の中では,反転する。


46 「すぐむきになる」というのは,社会的にはマイナス。欠点。会社とかで,すぐむきになる人とは,一緒に仕事したくない。すできなえがおの人とは,一緒に仕事したい。


47 だけど,愛の告白として有効なのは原作のほう。「すてきなえがおのきみがすきです」と言われても,「すてきなえがおはみんなが好きです」って思うけど,「すぐむきになるきみがすきです」って言われると,ちょっとぐっとくる。


48 なぜかというと,すぐむきになるというのは,欠点だから。「この人,私の欠点も愛してくれるんだ」みたいな流れですね。


49 もうひとつは,これ,実際に短歌の中でむきになっているからね。「煤」「スイス」「スターバックス」って,しりとりに負けまいとして。


50 「今まさにしりとりで負けまいとしてむきになっている君が好きです」って言いながら,戦いはまだ続いていく。だからこれは,非常にテクニカルな短歌です。


51 これ、今,言葉で説明しているから長いけど,直感的に,どっちがいい短歌で,どっちが愛の告白として有効か,わかりますよね。



文献4:中谷宇吉郎著『科学の方法』(岩波書店:第75刷2019年(第1刷は1958年))(第8章「定性的と定量的」の一部を抜粋)


① 定性的と定量的という言葉も、科学でよく使われる.これらも科学の方法を論ずる場合には、一応考察しておくべき言葉である。


② 定性的というのは英語のクォーリタティヴの訳語であって、クォーリティ、すなわちものを質的に見ることである。定量的というのは、クォンテイタティヴ、すなわちものの量を測って、量的に調べる場合に使われている。


(中略)


③ 通俗科学書などを見ると、この頃科学が非常に進歩して、自然界のことは、もうたいてい分ってしまったように書いてある。分子のことも分り、原子のこともわかった、原子核のことも、更に進んで素粒子のことまでも、だいたい分ったような印象を受ける。電磁波の方でも、放送などに使われる長波長のものから、短波、マイクロウェーブ、普通の光、X線、ガンマ線と、全部のものが分っている。こういう面をみると、何だか今日の物理学は、自然の究極まで極めたように思われやすい。しかし自然というものは、そう簡単なものではないのであって、普通に人間が想像する以上のものなのである。現在の科学は、なるほど今いったように、物質の究極のところまで、見きわめている面もある。しかしこれは、たとえてみると、菌糸のような発達のしかたである。非常にうねうねしながら、無数に枝分れして、ずいぶん広い範囲にわたって伸びていっている。それである方向には、非常に深く入っている。それからまた枝分れも非常にたくさんあって、ありとあらゆる分野にまで、それぞれの知識が行きわたっている。しかしその間に、取り残された領域が、まだまだたくさんある。いわば線の形をとって進歩しているのであって、面積全体をおおう、すなわち自然界全体をおおうという形にはなっていないのである。(中略)


④ 少くともわれわれの身のまわりに毎日起きている現象の中に、いまだに解けていない問題がたくさんあることは知っておく必要がある。それで自然現象自身を、注意深く観察することは、まだまだ必要である。「それは単なる観察の記録にすぎない」というような一言で、ものごとを片づけてしまってはいけないのである。一応分っているように思われることでも、自然現象というものは、もっと複雑なものだということを、始終念頭において、自分の眼で観察していくことが大切である。観察は科学の方法としては、一番原始的な方法であるが、今日の科学においても、やはり大切な一つの方法なのである。普通には観察というと、肉眼で見ることだけと思われ易い。しかし科学の場合においては、それをもう少し拡げて、顕微鏡とか、あるいは望遠鏡とか、その他の機械を用いて見るということも、もちろん含まれている。(中略)


⑤ こういうふうに、観察によって、自然界に起っている現象なり、物の本態なりをよく見ておいて、その中のある性質について、いろいろな測定を行うわけである。測定ということはある性質が分ったときに、その性質を、どういうふうにして、数であらわすかということである。それで測定をする前に、それがどういう性質のものかということを、十分よく知る必要がある。それにはまず観察によって、ある現象なり、ものなりの性質をよく見ることが第一になさるべきことである。この第一歩のところが、すなわち定性的な研究である。測るべきある性質がきまった場合に、測定によって、それを数であらわす。数であらわされたら、それに数学を使って、知識を整理統合していく。この方の研究は、あるものの性質を、量的に調べるわけであるから、定量的の研究といわれている。


⑥ こういうふうに考えると、定性的の研究は、まず第一歩の研究であって、定量的な研究の方が、更に進んだ研究ということになる。そして事実そのとおりであるが、この初歩のところ、まず自然界を定性的に見るというようなことは、現在のように進歩した科学では、もう必要がなくなったとはいえないのである。科学のどの面においても、定量的な研究が、いつでも進歩した形であり、しかも数字の桁数がたくさん並んでいるほど精密だというふうに、一般には思われているが、そう簡単に割り切ってはいけないのである。測定された桁数が、たくさん並んでいるとき、それがほんとうに意味がある場合には、もちろんそれは精密な研究である。しかし測定しているものの性質があまりはっきりしていないような場合には、いわゆる定量的に、いくらくわしく測ってあっても、それは全く意味がない場合もある。測定によって得られた数字が、自然の実態をあらわしていないか、あるいは実態のうちのごく一部の性質しかあらわしていない場合は、科学的の価値は少いのである。


(中略)


⑦ 定性的な研究、すなわち測定の対象についてその性質を常に見守っているということ


は、研究の初歩の時期と限らず、全期間を通じて、常に大切なことである。



文献5:内田義彦著『生きること学ぶこと(新装版)』(藤原書店:2013)(p.58~61の一部を抜粋)(補足:経済学者として,「生きる」ということに向きあう学問的態度のありかたを論じた一節です)


①志村ふくみさんという染織家がいます。日本の独得の美しさをたたえた布を織り上げる大家で,その方から伺った桜の色を出すコツの話です。もっとも,志村さんのお仕事は,別に桜が中心ではなく,さまざまな草木を使っての,さまざまに美しい日本の染織であるようで,現に『一色一生』というご本(これはいい本です。ぜひ読んで下さい)では,桜のことはチラと出るにすぎないのですけれども,この本の大佛おさらぎ次郎賞授賞式で伺った,桜の色のことが印象深かったので,それをもとにお話しします。


②私は,桜の色を出すというのは,桜の花を集めて,煮詰めるんだとばかり思っていましたが,そうじゃないらしいんですね。幹なんだそうですよ。桜の幹を煮詰めて色を取る。


② 桜はある時突然パッと咲き揃いますね。花の山となる。


③ つまり,あれだけ大量の花にあれだけ見事な桜色を出させるだけの――質と量をもった――樹液が幹の中に用意されているから,ある日,気象条件という外的な条件が揃ったときに,あの美しい桜がいちどきに咲き揃うので,問題は幹なんだそうですね,花ではなくて。それで,いつ,どこで,どういう幹を切り取るかが染料作りのコツなんだそうです。


④ 花が咲いちゃったらもう駄目なんですよ。


⑤ 花に吸いとられちゃって,幹の中は空っぽだから。といって,早すぎればもちろん駄目。気象という外的な条件がととのったとき,花が一時に咲きうるように,満を持して,過飽和状態になっている。正しくその時に――その時というのが私には皆目分かりませんが――条件をみたしている幹を見定めて切る。そういう幹を集めるところにコツがある。


⑥ もちろん,それだけで染織の仕事が終わるわけではない。その後の――さまざまな,それぞれコツを要する――工程を経て,はじめて布はできる。それがなければ,染料だけではどうしようもない。むしろ,私など素人がたまたま織物工場を見に行って感心するのは,そこのところでしょう。が,その工程の奥に材料の調整という根があって,その基礎があって初めて,その後の仕事が仕事として生きてくる。その意味で,幹集めがコツなんだ――という話を聞いて私はうなりました。


⑦ 私など出来上がった製品を見て,初めて美しさを知る。せいぜいのところ,製品にごく近い部分だけを見て感心している。が,それじゃ,本当は製品を見たことにはなりませんね。根のところを知って,初めて製品を見る眼が出来てくる。(中略)織物のことは分かりませんが,学問という自分の仕事にかこつけて考えると,反省の材料になりました。ものの奥が見えてきて初めてものが見えてくる,そのようにものを見なくちゃ駄目だぞ,と思いました。ボヤッと,眼の前にある製品を見ていても,ものは見えてこない。


⑧ (中略)ところが一志村さんの話はまだ次があります――そうやって仕事を続けているうちに,だんだん,こういうことでいいんだろうかという気がでてきた,というんです。


⑨ たしかに,それでいい染料が出来,美しい織物が出来るようになった。しかし,桜の方からいうと,話は別でしよう。せっかく美しい花をと思ってたくわえてきた材料が取られちゃうわけですから。で,だんだん桜に申し訳ないような気がしてきたというんです。おそらく,桜の幹を真剣に見ているうちに,桜そのものに身が入ってきたんでしょう。その見方の変化が,ある時,意識の表面に出た。


⑩ 桜に成仏してもらえるような仕事,つまり,花は咲かせられなかったけれど,おかげでこういう美しい織物が出来た,これならいいと納得してくれるであろうような美しい織物を作らにゃもう申し訳ない,そう思って,いっそう精進する。


⑪ こういう心境と見方の変化によって。おそらくは志村さんの作品は,作品としていっそう見事なものになったし,なっていくだろうと思います。


⑫ ということは,どういうことかといいますと,――いよいよ私の独断と偏見をもとに,我田引水で学問論の領域に話をすすめるわけですが――いままでは桜を染料を作る手段と考え,その立場から手段として桜の幹をみてきた。ところが,いまや,桜を手段として見るのではなく,ともに生物である桜とともに生き,桜とともに考える。そのように,桜の身になって,内から,自分がいまあるところの状態として幹を見る。そのような立場に立って見ることで初めて幹の状態が悉細しつさい1に見える。


⑬ もう一度,概念的に整理しなおしておきますと,桜の幹を色の材料を出すための手段として,外から観察していた。しかし,その程度のことでは,見えないものがある。桜とともに生き,桜の身になって考える。桜とともに生きる,というのは難しいことですが,この場合に初めて非常に深い観察ができ,それによって初めて真に美しい布を染め出す材料が取れる。つまり,物を外から,手段として考え,手段として見るかぎり,手段としても役に立たない。手段としてではなく,その中に入って,(中略)その気持ちを理解するようになって初めて,染織の手段としても役に立つ。


⑭ 私はこの話を聞いて「そうだなあ」と思いました。だいぶ前からですが,調査のほうでも,そういうことが間題になっています。調査を申に外からやっていたのではダメだ。中へ入って,一緒にそこで暮らしながらやらなければ無理だといわれます。一緒に暮らし,喜怒哀楽をともにすることによってしか見えてこないものがある。外からの「学問調査」だけでは,学問の手段としても役、'たない。


1「悉く(ことごとく)詳細に」という意味で昔使われていたことば


文献6:三宅陽一郎著『人工知能が「生命」になるとき,|(株式会社PLANETS/第二次惑星開発委員会:2020)(補足:三宅氏はゲーム開発の世界に本格的に人工知能を持ち込んだ先駆者です。ゲームの世界をリアルなものにしようとする探究は,知能とは何か,ひとはどういう存在かを問う「人間研究」そのものであるというのが著者のスタンスです。その意味で,著者は,「ひとが生きること」に真摯に向きあう人工知能研究のありかたを問うていると言えます。「存在」,「物事の連環」,「根を張る・張らせる」,「事事無碍」,といったことばと文献1~5の関係性を熟考しながら読んでください)


(1)p.182-183の一部を抜粋


①人が人と話すとき,ある言葉は相手の心の浅瀬まで,ある言葉は深い心の海まで届きますが,それが一体,どのような機構によるものなのか,まだわかっていません。会話する人工知能の最も遠い目標は言葉によって人と心を通わすことにあります。


②しかし,言葉によってだけでは不可能なのです。そこに存在がなければならない。そこに身体,あるいは実際の身体でなくても,同じ世界につながっている,という了解があってはじめて,人工知能は人の心に働きかけることができます。それは言葉だけを追っていては見えないビジョンですが,我々は言葉を主軸に置きながらも,その周りに表情を,振る舞いを,身体を,そして社会を持っています。


③人が人に接するということは,大袈裟に言えば,その背景にある,あるいは,その前面にある世界を前提にしています。言葉というエレガントな記号だけで情報システムは回っているために,どうしても人間のネットワークもそのように捉えたくなります。しかし,それは世界の根底にある混沌の表層であるとも言えます。発話者の存在が,また一つひとつの言葉が世界にどのように根を張っているか,また根を張っていない流動的な自由さを持っているかが,何かを伝える力を言葉に宿すことになります。


④言葉だけ見ていてはいけない。しかし言葉を見ないといけない。言葉は人間関係と社会の潤滑油であり,時に言葉が伝えられる,という事実そのものが,その内容よりも重要なことがあります。暑中見舞いの葉書が来るだけでも。その人が自分を気にかけてくれているとわかります。LINEのスタンプだけでも温かさを感じます。言葉という超流動性を獲得することで,人は,世界の存在の深い根から解放されお互いに干渉することができます。しかし,同時に言葉はいつもそんな人間の根の深い部分へと降りていくのです。(中略)


⑤人工知能に言葉を与えるということは,ただ言葉を学習させるだけではありません。その言葉にどのような重みを与えるのか,世界にどれぐらい深く人工知能を実装させようとするのか、根を張らせようとするのかを判断し実装する必要があります。深ければいいというわけでも,浅ければ簡単というわけでもなく,人工知能を最初から言葉を喋る「だけの」マシンとして捉えてしまうことは,工学的にも,サービスとしてもさまざまな弊害をもたらします。


(2)結語(p.296-297)を引用


⑦知能を作ることは,宇宙を知ることと同じぐらいの深さがあります。人類が最初,宇宙をとても単純に考えていたように,我々は知能をあまりにも単純に考える癖があります。人体に対しても,医学の発展が複雑な身体の機構を徐々に解き明かしていますが,まだまだ知らないことがたくさんあります。知能の探求も,医学と同じように,細かな積み上げと組み合わせが必要とされます。そのためには,まず正しい探求の仕方を始める必要があります。それは,これまでの科学のアプローチの延長ではなく,因果律から事事無碍2の世界へ,機能だけではなく存在の根を含んだ形成を軸とするアプローチです。


⑧科学は鋭い刃で世界を断片化し知識を与えてくれました。しかしさまざまな人類の知見を総動員して知能を作るときには,物事の連環の不思議の中に入っていかねばなりません。物事がどのようにつながっているかについて,我々はまだ多くを知り得ていません。西洋哲学も,東洋哲学も,その点については充分な知見を持っていません。それは我々人間が形成された不思議とつながっています。存在することの驚異と,つながることの不思議に繊細に気をつけながら,徐々に要素を融合していく知の力が必要です。東洋の持つ生成の力。西洋の持つ統合の力を合わせて,人工精神,人工生物を生成する長い道のりが始まろうとしています。その長い旅路の中で,我々は自分自身を形作っている力と向き合っていくことになります。それは宇宙を探求することと知能を作ることに共通する問いである「我々はどこから来て,どこへ行くのか」の答えを知る旅でもあります。だからこそ。人工精神,人工生物を作り出すという行為は,これまでにない倫理的な問題に人間を立たせることになります。それは,人の倫理を問い直すことでもあり,人を新しい倫理の段階に昇らせる過程でもあるのです。


2「じじむげ」と読む。世界のすべてのものごとは碍(さまた)げあうことなく融合しているという仏教界の考え方。





(2)解答例


設問1:

外食のように買うことに慣れてしまった現代にあって、自ら手間をかけてものを作ることの重要性を指摘している。また私たちの身の回りの道具は民芸品のように用いられることで美しくなるのに、美そのものを抽象化して鑑賞する対象となったしまったことを批判する。道具は人が暮らしの中で人々とつながっている。人はそれに直に触れて、使われながら美しいものができてくる。さらに自然と暮らしのつながりの中に美が立ち現れてくる。

(150字)

設問2:

両者は関係性やつながりという点で通底している。料理と器やマットとの関係性、言葉と言葉とのつながりが料理や作品の出来を左右する。また両者は価値の転換という点で通底する。家庭料理や鯛焼きのバリのように一般的に価値の低いとされているものに対して面白さや魅力を発見している。さらに素材を吟味するところも通底する。目の前にある素材から受ける刺激を重ねて良いものを創る勘が働くのは家庭料理も短歌同じである。(197字)

設問3

測定しているものの性質がはっきりしていない場合には定量的詳しく測っても意味がない。そこで対象を注意深く観察して対象の性質を常に見守る定性的手法が科学の初歩となる。これは文献3の歌詠みにも通ずる。鯛焼きを象っている縁の部分であるバリに着目してこれを「面白きもの」と評価する。また、人間にはさまざまな側面がある。素晴らしい笑顔の人だけでなく、対象の女性の性質をよく見て「すぐむきになる」という側面をあぶりだし、これを「きみがすきです」と詠んだ。これらの歌は注意深い観察によってもたらされたものである。(247字)

設問4

文献2は、人間が自然の立場に身を置いて、その痛みをわがものとして感じる自然との一体化について論じている。文献4も人間が自然とともに生き,ともに考え、自然の身になりその内部から人間の状態を見ることを説いている。このような人間と自然との共存を通して物事の本質が見えてくるという視点が通底している。(146字)

設問5

文献5では、対象の桜とともに生き,桜の身になって考える。桜とともに生きるとき、初めて非常に深い観察ができ,それによって初めて真に美しい布を染め出す材料が取れるとしている。それには表面をただ見るのではなく、桜の内部から見ることで初めて幹の状態が子細に見える。このような態度は、文献4で、自然現象を注意深く観察することは単なる観察の記録として片づけてはいけないという態度に通じる。自然現象の複雑さを始終念頭におき、肉眼での観察から拡大して、顕微鏡を用いて対象の内部を見るという態度も共通している。(246字)

設問6(a)

夫妻は家をD I Yで自分たちの暮らし合うように整えていった。庭は周囲の自然を借景として取り込むことで自然と暮らしのつながりを意識する。季節の草木を植え、妻が制作した彫刻作品を庭に配置する。DIYでは部屋と部屋、母屋と庭やウッドデッキとの関係性に配慮する。近所の農家が作った旬の有機野菜で手間をかけて料理を作りテラスで食事を摂る。テラスは夫が小説を執筆する場でもある。近々、庭で野菜作りも始めるという。家や家具作りで使用する木材は高級木材ではなく里山の雑木林の木材で家具や食器、ウッドデッキなどを制作する。木材をよく観察して、素材から受ける木目や固さに応じて使途を使い分ける。家具も部屋に調和したデザインにしている。

(300字)。

設問6(b)

研究方法として、社会学の参与観察の手法を用いる。AさんはBさん夫妻の家の一部屋を間借りして、一定期間ともに生活をしながらBさん夫妻の住まいかた・暮らしかたの変化を記録する。夫妻が生活するなかで、Aさんは自らも体を使って料理やD I Y、畑作りを手伝う。定期的に夫妻に対して、この土地、この家での住まいかた・暮らしかたについてインタビューを行う。特に住む前と住んだ後での仕事や心身や考え方、自然や地域に対する見方、夫妻の関係の変化や問題点、地域住民との関わりなどを質問する。夫妻の表情やしぐさなどの変化も観察し、つぶさに記録する。また、夫妻がこの地での生活に慣れるにしたがって、Bさんの小説を分析し、住む前と住んだ後とで、テーマや小説で使われる語彙がどのように変化しているかを分析する。特に主人公の生き方、自然との関係性をみることで、小説からBさん夫妻の暮らしを逆照射する。夫妻の変化について日録をもとに週単位、月単位で記録することによって、新居でのQOLの変化を定性評価する。このような調査を通して、夫妻の自然観や世界観の変化が住まい方・暮らし方にどのような影響をもたらしたかを研究の目標にすえる。(495字)。


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