龍が、いつも同じ距離に観えるわけではありません。
鑑定をしていると、すぐそばに気配がある日があります。
顔の向きや鱗の重なりまで、手を伸ばせば触れられそうに伝わってくる日です。
反対に、ずっと遠くに観える日もあります。
山の向こうに細い影だけがあるような、こちらを向いているのかさえ定まらない距離です。
「遠いのは、何か悪いことですか」
そう尋ねられることがあります。
けれど私は、距離だけを見て良し悪しを決めることはできません。
【近く観えることと、近くにいること】
龍が近く観えると、守られているように感じる方もいると思います。
たしかに、寄り添うような姿が伝わることはあります。
けれど、近いから必ず助けが来る、とは限りません。
何かの前触れだとも、私には言い切れません。
ただ、その時の龍がこちら側に大きく姿を見せている。
観えている事実は、そこまでです。
近くに観えた日は、私自身も言葉を多く書きたくなります。
細部が見えるぶん、意味までわかったような気持ちになるからです。
けれど、姿が鮮明であることと、その意味を理解していることは別です。
近さに安心を足しすぎない。
強い姿に約束を結びつけない。
それは鑑定を書くとき、私が気をつけていることの一つです。
【遠さは、離れた証拠ではありません】
遠くに観える龍は、消えたわけではありません。
少なくとも、私が観ている景色の中にはいます。
小さく見える。
輪郭が薄い。
呼びかけても、こちらへ寄ってこない。
そんな姿を前にすると、私は急いで距離を縮めようとはしません。
なぜ遠いのかを決めつけることもしません。
ご本人が龍から離れているのかもしれない。
龍が少し先を見ているのかもしれない。
その日の私の受け取り方によるのかもしれない。
いくつかの考えは浮かびます。
けれど、考えは観えたものではありません。
理由が観えなければ、「今日は遠くに観えました」と、そのままお伝えします。
遠さを不安な言葉で埋める必要はないと思っています。
距離は距離であって、拒絶とは限りません。
良くない未来の合図とも限りません。
【日常の中にも、距離があります】
人との関わりにも、近く話せる日と、少し離れていたい日があります。
好きな場所でさえ、毎日同じようには感じません。
朝にはよく聞こえた雨音が、夜には遠くなることもあります。
慌ただしい日は気づかなかった風が、立ち止まったときだけ頬に触れることもあります。
気配との距離も、それに少し似ています。
近い日だけを大切にして、遠い日を失ったものとして扱わなくてもよいのかもしれません。
遠くにあるからこそ、全体の姿がわかることがあります。
近くにあるからこそ、見えなくなる部分もあります。
どちらが正しい距離なのかは、私には決められません。
その時に観えた場所が、その時の距離です。
【追わずに、置いておく】
龍が遠く観える日、私は少し待ちます。
待てば必ず近づく、という意味ではありません。
何もしなければ運が開く、という話でもありません。
すぐに意味をつけず、遠くにいる姿を遠くにいるまま見ておく。
見失ったら、見失ったと認める。
もう一度観えたら、その位置から受け取る。
それだけです。
日常でも、答えが遠く感じられる日はあります。
決めたいのに決まらない。
心の声を聞こうとしても、何も返ってこない。
そんな日に、無理に特別な気配を探さなくてもよいと思います。
湯気の立つお茶を飲むこと。
窓を少し開けて、外の音を聞くこと。
今日できた小さなことを、一つだけ確かめること。
それで龍が近づくとは言いません。
ただ、自分が今いる場所を確かめる時間にはなります。
龍観術で私が見ているのは、未来を保証する印ではなく、その時に伝わってくる姿です。
近い日は、近いと書きます。
遠い日は、遠いと書きます。
距離の理由が観えないときは、わからないまま残します。
近さも遠さも、その人の価値を測るものではありません。
もし今、何かが遠く感じられているなら、急いで名前をつけなくても大丈夫です。
遠くにあるものを、遠くにあるまま静かに見送る時間もあります。
距離が変わったときには、そのとき見える景色を、また正直にお伝えしたいと思っています。