夜明け前の山あいに、白い霧が重なるように観えた日がありました。遠くの峰も足元の草も輪郭を失い、どこまで景色が続いているのか分かりません。その中で、龍は低い岩の上に身体を伏せていました。
龍の鱗は青灰色で、鬣にはわずかに白い光が触れていました。大きく動いてはいません。ただ不思議だったのは、龍の身体のまわりだけ霧が薄く、前足と岩の表面が静かに見えていたことです。
その先に道があるのか、何かが近づいているのかは観えませんでした。霧が晴れている範囲も広くはなく、龍から少し離れると、景色はまた白く閉じていました。私は「龍のまわりは見えていますが、その外側はまだ霧の中です」とお伝えしました。
見えている範囲は小さかった
霧が薄いと聞くと、先が明るくなったように感じるかもしれません。けれど、その日に観えたのは、遠くまで続く晴れた景色ではありませんでした。龍が今いる場所と、前足の少し先。それだけです。
龍の表情も穏やかでしたが、喜んでいるとも安心しているとも断定できません。顔は正面より少し下を向き、見えている岩肌を確かめているようでした。霧の外へ進もうとする動きは観えませんでした。
先が分からないとき、わずかに見えたものを大きな答えにしたくなることがあります。しかし、小さく見えたことは、小さいまま受け取る方がよい場合もあります。今立っている場所が分かることと、これからの行き先が分かることは、同じではありません。
霧の向こうを無理に決めない
日常でも、すべての事情が揃わないまま判断を求められることがあります。相手の気持ち、仕事の流れ、まだ届いていない知らせ。考えても確かめられない部分が多いほど、不安は空白にさまざまな物語を置きます。
その空白を、良い想像だけで埋める必要も、悪い想像だけで埋める必要もありません。観えていないことを、観えていないまま置いておくことは、答えを放棄することではないと思います。
もちろん、現実の期限や安全に関わることは、分かる範囲の情報で動く必要があります。霧が晴れるまで何もしない、という意味ではありません。確認できることを確認し、必要な連絡をし、そのうえでまだ分からない部分を分けておく。その静かな区別が大切です。
足元が見えるだけでも
しばらくすると、龍は片方の前足を少しだけ動かしました。大きく踏み出すのではなく、爪の位置を岩の平らな方へ置き直すような動きでした。霧の薄い範囲は変わらず、遠景も見えないままでした。
それでも、前足がどこに触れているかははっきり観えました。岩は乾いていて、深い割れ目もありません。龍が次にどちらへ進むのかは観えなくても、今の足元が崩れているようには見えませんでした。
先の全体像が分からない日は、今日できる小さな確認だけで十分なことがあります。予定を一つ整える。返事を一通だけ送る。疲れているなら休む。そうした行動が未来を保証するわけではありませんが、見えている足元に触れることはできます。
霧が戻ったあとに残ったもの
やがて白い霧がゆっくり流れ込み、先ほどまで見えていた龍の前足も少しずつ隠れていきました。霧が完全に晴れる場面は観えませんでした。龍もその場を離れず、輪郭だけが淡く残りました。
一度見えていたものが再び見えなくなると、後戻りしたように感じることがあります。けれど、見えた時間まで消えたわけではありません。龍がいた場所、岩の状態、前足を置き直したこと。その事実は、霧が戻っても変わりませんでした。
龍のまわりだけ霧が薄かった日は、すべてが見えなくても、今確かめられる範囲はあると感じた日でした。見えた小さな事実と、まだ見えない先を混ぜずに受け取りながら、必要な一歩だけを静かに選んでいきたいと思います。