こんばんは。
いつもブログをご覧いただきありがとうございます。
さて、今回は涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)についてお話します。三法印の最後にある項目です。
これは煩悩の炎が吹き消された悟りの世界は、静かで安らぎの境地ですよ。
という意味です。
これはどこにでもそう説明されています。
これまで見てきた諸行無常(しょぎょうむじょう)や諸法無我(しょほうむが)とは、ちょっとニュアンスの違うものです。
諸行無常とは
全てのものは常に移り変わり、何一つ変化しないものはないという真理
諸法無我とは
全てのものは、因果の法則に基づいて成立していて、特定の我(私、あなた)というものは存在しないという真理
この二つは私達が生きている世界の真理を説明していますが
涅槃寂静はこれら二つの真理を感得した時に起こる心的作用のことを指しています。
つまり私達の心の迷いや悩みを取り除いた状態。それは安らぎに溢れているという意味です。
そしてこれは仏教におけるゴールのようなものです。
仏教の教えはこの涅槃の境地を人々に体験させるために、手を変え品を変え色んな角度から、人々にアプローチしているのです。
ですが、これは感性や感動の部類なりますので、言葉では伝えることができないのです。
以前同じようなことを言いましたが、ある映画を見て涙を流すくらい感動したとします。その感動を誰かに伝える場合あなたならどうしますか?
おそらく映画のストーリーを熱弁して、身振り手振りのジェスチャーを加え、声のトーンに強弱をつけ、喜怒哀楽の表情を駆使して、必死に相手にその感動を伝えようとするはずです。
でも、そこまで必死に伝えたとしても
相手には感動したという事実は伝えられても、自ら体験した感動そのものは絶対に伝えられないのです。
恋愛でもそうですよね。相手に好意は伝えられても、自分の中にある感情や情熱は伝えることはできませんよね。
悟りも同じです。
仏教はその伝えることのできない悟りの境地を、どうにかして伝えようとしているのです。
禅語には、不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉があります。
悟りは文字で伝えることができない。という意味です。
また以心伝心(いしんでんしん)心をもって心に伝える。という事です。
ですから、仏教はその人その人個人が悟りに至れるような仕組作りをしていくんです。
そして、ある一定の段階になったとき、啐啄同時(そったくどうじ)的な現象が起こるのだと。
啐啄同時とは、鳥の雛が卵から生まれようと殻の中からつつき、その音を聞いた親鳥がすかさず殻の外からついばんで殻を割り、雛鳥が生まれるときの様子です。
禅では弟子が雛、師匠が親ですね。
自らの内に秘めた想いは、外からの刺激によって顕現されるということです。
今は禅語を例にしましたが、ほかにも色んな表現で悟りに至る道を説明してます。
その結果、膨大な経典の数になってしまったわけですね(;^_^A
しかしその内容は本当に深いものばかりです。
よくもまーそこまで細かく、そしてくどくどと説いたものだと感心します。
なにはともあれ、涅槃寂静というのは悟りの境地なのです。
長くなってきましたので、この辺で終わります。
最後までご覧いただきありがとうございました。
続きは次回です♪