人生には山あり谷ありと言いますが、好んで谷や淵に落ちる人はいません。
私の父が口癖のように言っていたのは、「努力はいつか報われる」「正直者が最後は勝つ」という言葉でした。昔の日本人の典型のような人でした。
たしかに父は努力の人でした。小さな事業をしていましたが、日曜日も休んでいた記憶がありません。夕食が済んでもテレビを見ながら寛ぐという時間を持たず、作業場に行って作業をするというような生活でした。
私自身も子どもながらに思い返せば、クリスマスといえば小さなケーキがあれば最高で、数日後に訪れる年末のことを思うと気が重くなる一方でした。
それはなぜかというと、大晦日になると毎年借金取りが押しかけてくるからです。
中には遠方から来て酒を飲み、泊まっていく人もいたくらいです。
子ども心に不安で落ち着かない夜が、毎年のように繰り返されていました。
思い返してもはるか昔のことですが、父の口癖であった「いつか報われる」という言葉を信じ、期待できるような日々は、とうとうやって来ませんでした。
正直者は報われるのではなく、むしろ馬鹿を見るのではないか――そんな疑念が芽生え始めました。
そしてとうとう事業は倒産してしまいました。私が小学校6年生の時です。
当時はまだ昭和で、今のような情報社会でもなく、法テラスなど夢の世界でした。自分の街に弁護士がいることさえ知らなかった時代です。
毎日の食料の買い物でさえ、ツケ(後払い)で買う生活でした。
借金取りの中でも心ある人が、部屋の隅で寒さに震える兄弟に向かって、
「いいかい、今夜はお父さんとお母さんのことを守ってあげなければいけないよ……」
と言って帰っていったことを思い出します。
子ども心に、両親が心折れて自死するのではないかと心配しての言葉だと理解していました。
兄と交代で寝ずに見張っていたことも、今でも忘れられません。
そんな生活の中でも、国の景気が回復したときの恩恵に預かれる時期がありました。事業も順調な時期でした。
数年のことではありましたが、私たち兄弟も家業を手伝い、兄も結婚し、傍から見ればそれなりに幸せそうに見えた頃でした。
しかし、世間に疎いというべきか、世間知らずというべきか、両親は企業経営という概念が欠落していたと言っても過言ではない状態でした。
銀行との付き合いを嫌い、資金繰りは友人や親戚、時には近所の顔見知り程度の人にまで及んでいたのです。
腰が低く外面の良い父は、周囲からの信用はありました。
そこで使われていたのが「融通手形」です。
手形を切って割り引いてもらうのですが、これは仕事上の取引ではなく、純粋な金銭のやり繰りでした。
月の利息は2分3分(2%、3%)。年にすれば20%から40%にもなります。
これでは倒産しない方が奇跡で、事業を継続する意味さえ失われていきます。
やがてこのやり繰りも底をつき、友人や親戚、兄弟にまで負債を残したまま、二度目の倒産を迎えました。
「正直者はいつか報われる」という考えが、脆くも崩れ去ったのはこの時でした。
今思えば、父は本当に正直者だったのかと疑う気持ちも芽生えるようになりました。当時の私は父を被害者だと思っていましたが、
今振り返ると、善意と無知は区別されるべきだったと感じています。
こうして私たち家族は、父の「一家離散宣言」のもと、それぞれが独立し、社会に放り出される運命となります。所持金はほとんどありませんでした。
とりあえず、ここまでが私の前半生を書き起こしたものになります。
伝記を書くつもりではありません。これは、私の考え方がどのように醸成されていったのか、その始まりを記すものです。
私がこの経験を語るのは、
同じように「正しいはずなのに苦しい場所」に立っている人が、
違う選択肢を見つける手助けができると考えているからです。