―奈央さんの小さな気づきの物語―
今朝、いつものように近所のコンビニで、コーヒーを買った。
朝は少しだけ余裕があったはずなのに、心はどこか忙しなくて、目の前のことにちゃんと向き合えていなかった。
レジで受け取ったコーヒーは、いつもより少しだけ熱く感じた。
そのぬくもりを手のひらに感じながら、店員さんの「ありがとうございました」という声を背にして、私はそのまま店を出てしまった。
……あれ?
私、「ありがとう」って、ちゃんと言ったっけ?
歩きながら思い返してみるけれど、曖昧だ。
たしかに軽く会釈はした。でも、声には出していなかったような気がする。
そんなことで?と自分でも思うけれど、
たった一言を言いそびれたことが、じわじわと胸に残っていた。
そのとき、ふわりと鼻をくすぐる、やさしい香り。
近くの民家の台所から、朝のお味噌汁の匂いが流れてきた。
だしの香り、味噌のやわらかさ、そして少しだけ焼けたお揚げの匂い。
思わず足を止めて、深呼吸する。
ああ、なんて、いい香りなんだろう。
子どもの頃、眠い目をこすりながら食卓に向かった朝を思い出す。
「おはよう」「いただきます」「ありがとう」
そんな言葉たちが、当たり前に行き交っていた時間。
言葉って、ぬくもりなんだなと思う。
誰かの気持ちを、手渡すみたいに、そっと差し出すもの。
今朝、私が言いそびれた「ありがとう」も、
あの味噌汁の香りのように、どこかで誰かの心をあたためるものだったのかもしれない。
だから次は、ちゃんと伝えたい。
たとえ一言でも、あたたかく。
今日のありがとうは、明日へ。
少しだけ遅れて、ちゃんと届けに行こう。