あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
物欲からはなれなさい、とか不食にしなさいとか、スピリチュアル界隈は色々言っていますが。
じつはね.....私はまったく真逆な路線いってる感じで、年末は趣味に突っ走り、めっちゃネットで古物商的なところで買い物三昧でした。
スピリチュアルな先生たちは、ユーズド品や骨董をやめろと言います。
有名なスピリチュアリストたちも、悪い人の念がついているかもしれないから、運が下がるとか、憑依されている人って、リサイクルや骨董を集めたりするんですよ、っていってました。何人も。
だから、無視して買う私、実際、スピリチュアリストではありません。w
超意識の学問はやるのに、なぜスピリチュアリストではないのかという矛盾の答えは、たぶん自分の魂のルーツにあるのでしょう。
というのも 最近、また別の特殊技能者との出会いがあり、その人の技能を受けてるんです。そのひととセッション中お話しするのですが、話せば話すほど、彼は、私からみると過去生の記憶をすっかり失った記憶喪失状態の密教系の行者さんなのですよね....。w
「誰にも真実があるので、信じたり採用したりしなくてもいいんですが、僕、なんだかこう思うんですよね」
って淡々とお話しされる内容が、もうすべてにおいて密教世界で習得する真理なので、笑うしかなく、「ごめんなさい」っていいながら、「それ、めっちゃ密教ですから!高僧の教授もおんなじこと言ってましたよ。」
ってつっこんでました。w
それほど、彼は実際この世において修行をされたことは一度もないのに、密教世界で徹底的に教わることをなぜだか知っているんですよ。
そして、それを教えてくれるスピリチュアルな(彼は思念がわいてきたと表現するんですが)存在もいて、
「なんだ、仲間じゃないか。おんなじ人がいたんだ。」
って、私は無性に笑ってしまったんです。あああそういう時代なのねと。
そして彼はスピリチュアリストでは全然ない。
彼はひとの意識と体の相関関係を機械を使ってモニターする。
私は、人の意識を生まれ持った気の法則によって読み解く。
アナログかデジタルツールかという違いはあるけど、やってることもお互い、非常に似てる。
過去を聞いても、これまで、あちこちスピリチュアルで、ああだ、こうだ、話されている高尚な教えにも、彼はピンとくることがなく、違和感しかなく、「いや、答えはこうだ」というのが自分の中にあったそうです。
要するに自分の内側にあるものを引き出すために、外部のきっかけと出会ってきて今がある、ということが側から見てもわかるんですよね。
そして、「信じて信じないというか、かならず話者の意図や裏からも物事をみることを心がけているんです。そうすると物事の全体像が見えてくる...」とご自分でお話しされている通り、龍高星を生かして生きていらっしゃるんですよね。w
でも彼は「龍高星」という意識の型が何かも知らないでしょう。
人は「自分」を生きるために、型のなかで生きている。
あらためてそう思いました。
私としては大学で学んで知識としても、そういうことかと思っていたことを、密教を学んだことがないという彼の口から、もう一度、その奥義を聞かされることになったんです。
ああ、そうか、自分の中で、本当にそこがわかっているのか、もう一度見直す必要があるから、今、彼を通して、聞かされているんだなぁとも妙に納得してしまったのでした。
世間話にしても、一致点があったのも面白かった。スピリチュアルのひとたちは、ああしなさい、こうしなさい、魂の向上のために、っていうんですけども、それを口にした途端、もうスピリチュアルの信徒の人たちには、義務みたいな足枷になる。言葉にしないで体験から伝えないと誤解されるばかりでまったく伝わらない世界があるんだけど、スピリチュアリストの先生達は、それをわかってるのかなんだか、何を目的にやっているんだろうね、っていうところも同感でした。そう、密教は、体験とおさないとダメな世界なんですよ。聞いて理解した、は通用しない世界。w
私たち密教系のルーツがある魂は、基本的に不自然に無理をすることを好まないんですよね。そして、テーマがあったとしてもすでにそれは自分の内側にあるって捉えるんです。だからないから、ないものを得なきゃと追い求めるような努力をめざさない。(ゲーム的におもしろいからやりたいっていう対象はあるんだけども。)
密教系修行者にとって結構それって自明で、もともと仏教で釈迦が気がついたのは、難行苦行があるからひとは悟るのではない、ということだからなんですよね。w
もちろん修験道では、確かに自分を追い込むとみえる修行もやりますが、それも色々意味があって、それはこの際おいておきますが、基本的に自分をなにかに合わせて、悪い人間だった自分が善人に変わって、その結果なにか悟れるとは思ってないのが密教だと思います。w
ちょっと誤解をうむかもしれませんが、感覚的には、いやいや、すでに私は「かけがえのない尊い存在の私」だから。っていうのが密教的です。
ヒンズー系の密教もおんなじですね。
自分が神と同一のエネルギーを帯びた要素を持っていると決めるところからスタートする。
スピリチュアルの人たちのように、ダメな自分をなんとかして、向上させよう、みたいな意識とは、土台がちょっと違うんですよね。
アセンションせねばならないとか、地球をなんとかしなきゃいけないとか、そういう思いは、自分を生きれば自然と達成し通過してしまうかもしれない結果の話であって、別にそれをゴールとして生きているわけではないというかね。
なんか内側にある私の価値観と、そのセッションで彼の言っている世間話がめっちゃかぶって、ああ、お互い密教世界ルーツの魂の旅をしてきたんだなぁ、とうんうんうなづき、また同時にそれを聞きながら、客観的な自分も見えてくるので、笑えてきたんですよね。
だから、ある意味で、お互い、仕事もスピリチュアルに足をかけているのに、いま全盛のスピリチュアルを否定する(完全にシャットアウトとかではないですが)面があり、どこかであれはあれで役割があるからいいんだ、放置しとこうという考えもある。w
年末からずっと考えていたことと、彼が自分の仕事の技能を通して、改めて私に言っていることが、世界観がなんかおんなじだったんですよ。w
魂のルーツ的に似たもの同士が引き合ったという。
年末ね、
ある一定の成熟度を超えた人間が自分を満足して生きている状況で、もし誰かがそれじゃ迷惑を被ると不満を訴えるならば、ある意味でその人は自分とはうまくやっていけない人なんじゃないかなぁと思ったんですよ。
そういう場合、お互い別々な世界がホームなのだと思うんですよね。だから摩擦が起こるんじゃないかと。
手を取り合って、調整し合うストレスで、どちらかが倒れてしまうなら、それはどうしても相容れないなにかがあり、どこかに無理がある。無理はやだなぁ〜。やめよ。
と強く思ったんですよね。
何かをきっかけに急にうまくいかなくなって、そのご縁がなくなったとしても、それはかえって幸いだったってことがいっぱい起こる。
それが今なんだよなぁ、だから起こること全ては自分にとっていいことなんだなぁと思いました。じゃあ、心配事も基本的にはないな、と。
なんかそんなふうに思って。
いつもならば、年末に向かうにつれて、大掃除に焦ったりとか、年末の行事とかお節料理とか用意しなければとか、真面目に正月の規則に従ったと思うんですよ。ぴかちゅう、うるせ〜しなぁ...とか思いながら、気を使ったと思う。
でも、今回、自分が楽なこと、したいことだけやる正月にしようよ、とぴかちゅうに呼びかけたら、普段なら怒り出すかもしれないんだけど、意外にも「はい、わかりました。」と言っただけでした。
「はい、では、これにて義務終了。家族全員、この時点から好きなことやります。解散。」パンパン!と手を叩き、こどもたちも自分も、最後までしたいことしかしないことにした正月でした。w
内側の幸せに繋がるには、やっぱり不自然なことをやめることですよね。
そっからだなぁ〜と思ったこともあって、まずは自分の内側の幸せにもどってみようという試みをしたことは、なんか良かったような気がします。
そんなセッションの終わりには、「あの、念の為。ないと思うんですけど、なんか注意事項とかあるんですか」って聞いたら、彼は「ないです。なにかしなきゃいけないとおもうことをしないってことをやればいいと思います。」って言っていて、
「ああ、やっぱりそうですかw」って終わった感じ。
龍高星が悟ると、「なにも変えなくていい。全ては恩寵だ。」っていう境地に変わるんですよね。彼はまさにそこにいて。
これってね、鳳閣星には得意なことでも、龍高星にはこの境地に至るのはめっちゃ苦しい道のりなんですよ。w
だから、彼が散々、変革を繰り返してきたことは容易に想像ができました。
そしてそれが体験したくて、この人生なんですよね。w
それが側から見えて、いい体験人生だったんだなぁと思いました。
自分も仕事は確かに好きだけど、やっぱり人の悩みを取り扱うわけなので、役立てるとしても、私自身がそれによって、ワクワクしたり幸せ感に浸るわけじゃないです。じゃあ、その行為によって純粋にワクワクしたり、幸福感に浸れるものはなんだろうかというと、やっぱり趣味の世界ですよねぇ。
で、私の趣味は、前にも書いたように日本髪を結うことなんで、こどもたちを捕まえて、毎日毎日、日本髪を結っていました。
毛が傷んでいると、くしに絡むので、いたい〜やめて〜!と騒ぎながらも、協力してくれた子供達に感謝です。
できあがった日本髪に、持っているアンティーク着物や昔の染師さんがデザインした子供の振袖を着せたりして、街を歩かせると、みんなが子供たちをみて、ほわっとなる。外国人が写真撮らせて欲しいと言ってくる。
自分のアート作品公開して、勝手に自己満に浸る感じなんですけど、それでとくに喜んだのは、京都のおじいちゃん、おばあちゃんたちですよね。
京都では、正月に全員が着物を着るのが当たり前だったんだそう。
今は誰もきてないので、子供たちと日本髪を見て、自分の子供の頃を思い出してすごく幸せな気分になるんだよ、って言ってきてくれたお年寄りたち。
自分の自己満の世界で、人が幸せになってくれるって、なんか自己完結していい気分でしたよ。w
で、天禄星は、職人気質なんで、道具にやっぱりこだわります。w
年末に本格的な日本髪結用のつげ櫛を手に入れて、ご満悦ですよ。
道具によって、アウトプットが全然楽になり、昔の叡智に触れて感動。
髪も、なぜゴムじゃだめなのか、ということが、紙のこよりをつかってみて、本当の意味が理解できた。
びんつけ油にしても、進化系を取り寄せ、本当の元結も取り寄せ.....美容師免許も持ってないのに、趣味でひたすらに日本髪を結いあげるたびに、充実感と気づきがありました。
12月の日本舞踊の発表会で、小学生の子供を八人から十人くらい(数忘れた)一気に着付けしたことから、再燃した情熱ですかね....。自分が着たいとか結いたいとかは、全く思わない(むしろモンゴル服を着たいと思う)けど、女の子が笑顔になると自分も嬉しいんですよね。
物質世界の上に、豊かな世界が広がってるんです。それを味わえる人と味わえない人との間で、生きている世界が全然違ってます。
スピリチュアル世界の人が、進化すれば食べなくていいと言ったり、食にこだわること自体に宇宙存在ヒエラルキーをもとに、劣等意識持たせたりすることがよくあります。また、宇宙存在は、服はAIで3Dプリンターでデザインした個性的なものをあっというまにつくりだして、みんなそれをきている、製造過程なんて低次元のことをしていない。などと言ったりしているのを見聞きしたんですけども、悪いんですけど、私ね、それが高度な文明精神世界だとはどうしても思えないんですよ。w
京都の職人世界にあるような、作る人食べる人、茶事から派生した精神・アートをもつ食文化について、ちゃんとした理解がそのスピリチュアルな先生方にちゃんと理解されていたり、衣装文化への深い造形や理解があったりしたら、絶対そんなふうな言葉って、軽々しく出てこないと思うんです。
スピリチュアリストの多くって、そもそも生まれ育ちが、首都圏生活が長い人たちですよね。だから、日本をちゃんとしらないです。
体験知を知らないです。
西でちゃんと文化に触れて育っていれば、よくそういうことをいとも簡単に言えるよなぁって、思うようになりますよ。
それほど、日本にある文化は奥行きがあり、精神的に昇華されています。
それを体験した上で言う言葉と、何かからチャネリングして借り物として情報を下ろしてくる言葉とは、全然重みが違うはずです。
その違いにそろそろ、ひとが気付き始めているような気もしていますね。
人はパンのみで生きてないです。高度な文明に生きる宇宙人がいたとしたら、水しか飲まないですっていう仙人みたいな人よりも、食材をつかってアートをつくりあげてる板前さんの作品を出来る限り味わい尽くして、食がつくりだす美しさや幸せや愛を享受できる感性の方が絶対素晴らしいし、3Dプリンターで便利に着物作って出して着るところに豊かさを感じる感性よりも、人が思い入れを込めた手仕事のなかに含まれる、アナログだけが醸し出す豊かさを深く味わえる感性の方がよほど高度精神意識だと思うんですよね。
正月中、毎日眺めていた銘仙の着物だって、近くで見たらそんなに綺麗に見えないけれど、あれは印象派の絵みたいなスタイルで、織りで表現されたアートそのものなんです。ああ、そういうことか!と、そこに気づいて、感動できるか、美しさを受け取れるかどうか、それを愛した当時の日本人の美的感性、そしてそれを作り出そうとした職人たちの情熱を感じ取れるかどうか。
宇宙の高度存在たちが例え、そうであったとしても、私には地球の手間暇かけてものを作るプロセスを低次意識と見下すような、そんなことをいう今のスピリチュアリストたちのほうが、どうしても宇宙マニュアル人間・機械人間に見えるんですよね。
私の考えは特異なのかもしれないですが、
ああ、あれはさも素晴らしいことをおしえているかのように似せてるけど、実際は偽物なんだ、って自分的には思うようになりました。
この世に生まれたということは、この世を生きたくて生まれたわけで、この地球でしかあじわえないことがいっぱいあったから、ここを選んだわけでしょう。だったら、むしろ、この世の型をフルに活用して、アナログの奥行きを味わって、いまを生きるということが大事ですよね。
自分も色々揺れながらですが、結局はそこに行き着いた感じがしますね。
今年は、巳年です。SNSに今年の巳年の意味はちょっと書きましたが、そこで書いた理由からも、今年はおこってくることを受け止める一年になります。
そして、へびがクンダリーニを象徴するモチーフだったりもするように、エネルギーのうねりが大きい年だと思います。
そのうねりによって、下にうねるのか、上にうねるのか、二極化します。
どこに向かうかが問題なのではなく、自分がそれによって幸せを感じられるのかどうかというところにフォーカスしてみて欲しいところです。
ちょっと変わったな、とおもう人もいるかもしれませんが、私も、肉体をもってますし、意識の型のなかにいますので、そのような流れをうけてこうなってきているのだと思います。
まだまだ変わりますよ!きっと。
今年は、京都のあちこち、着物をき(せ)て、職人技が光ったおいしいものを食べ歩く幸せを噛み締める一年にしたいと思います。