泥濘(泥沼)の底から――「宿業」という言葉が届かない場所

泥濘(泥沼)の底から――「宿業」という言葉が届かない場所

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コラム
うつ病の苦しさは、ただ「悲しい」とか「気分が落ち込む」といった生ぬるいものではない。それは、身体中の骨と肉がコンクリートに変わってしまったかのように重く、ベッドから指一本動かすことすら絶望的な、物理的な激痛に近い。

脳のシャッターが完全に下り、思考は霧に包まれ、自分が自分でなくなっていく恐怖。朝が来るたびに、絶望が波のように押し寄せ、ただ息をしているだけで凄まじいエネルギーを消耗する。この地獄のような日々が永遠に続くかのように思える暗闇、それが私の現実だ。

そんな泥濘の底に沈んでいるとき、「これは宿業が原因だ」とか「過去の因縁のせいだ」などという言葉を聞くと、激しい怒りと吐き気がこみ上げてくる。

今これほどまでに苦しんでいるのに、さらに「前世の罪」や「心の持ちよう」のせいにされてたまるものか。この病気は、脳の機能が悲鳴を上げている明確な医療の領域だ。目に見えない因縁論を持ち出して、ただでさえ擦り切れている人間をさらに裁き、追い詰めるような言説は、残酷な凶器でしかない。

断言するが、この苦しみと宿業は何の関係もない。だからこそ、この記事を読んでいる賢明な読者の方々には、声を大にして伝えたい。

「前世の行いが悪いから病気になったのだ」

などと言って近寄ってくる、何某(なにがし)の霊的商法には、どうか絶対に乗らないでほしい。

病気と前世の行いは、何の関係もない。人の弱みや苦しみにつけ込み、目に見えない「因縁」や「祟り」をでっち上げて財布を開かせようとする手口は、卑劣な詐欺に他ならない。

医学的根拠のないオカルトに、あなたの貴重な人生やお金を差し出す必要は万に一つもないのだ。
世間に溢れる「病を乗り越えて深い境涯を築こう」とか、「今の自分を全肯定しよう」という前向きな言葉も、今の私には一滴も染み込まない。

本来、仏法が説く「即身成仏」とは、そのような過酷な自己変革を強いるものではないはずだ。
即身成仏とは、病気を克服して完璧な人間になることではない。

「即身」、つまり「今、うつ病で苦しみ、前すら向けない、その傷ついたありのままの身体と命」のままで、すでに絶対的な尊厳を備えているという意味だ。

何かを付け足したり、無理に前向きになったりする必要など最初からない。
もちろん、苦しい日々の中で、心の拠り所を仏教や信仰に求めるのは個人の自由である。内面的な平穏を得るために思想を学ぶことは、決して否定されるべきではない。
しかし、うつ病という冷徹な「現実の病気」と向き合う上で、何よりも大切なのは主治医との意思疎通を密にし、適切な休養と薬の服用を徹底するという科学的アプローチなのである。

目に見えないオカルトや綺麗事の精神論ではなく、現代医学に基づいた適切な治療こそが、この泥濘から抜け出すための唯一の確かな道標だ。
宿業という呪縛を撥ね退け、科学の力を借りて、今はただベッドの中で泥のように命を休ませればいい。

休養も立派な修行なのだから。
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