ニュートラルな状態

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さっきバイク運転しながら、状態の悪い時ならイライラしていたであろう周りの車の動きに全く心がざわつかないのを感じて、まぁ今ニュートラルですからね〜と答えていた。
その時思い出したのは、20年ちょい前に遊んでた友達との会話で、よく「ニュートラルな状態」という言葉を使っていたなぁということ。
平常心的な意味で使ってたと思うけど、ちょっともうかなり遠い前世なので当時の考えを拾うのは難しい。
しかしいい言葉使ってたなぁと思いましてね(笑)

やはり善悪とか正誤とか、そういう偏りってのはどうやってもひずみを生んでしまうと思うんです。
偏りというのは、他の可能性を受け入れられない状態だと思っている。
その人なりの考え方を持つのはもちろん大事というか当たり前の事なのだが、往々にしてそれに反する考えを否定しがちだ。
私の考えの方が正しい、あいつは間違ってる!というような方向性で考えてしまうと、偏りの中に入っていってしまう。
なんなら内的な話でも、自分の中で握りしめている価値観に反するものが出てきたら、それも認めず封じ込めたりする。
そういう偏りは、自分の無限の可能性をとことんまで縮めてしまうし、他者に対しても狭量になってしまう。
外的なものはわかりやすいが、内的なものは自分で客観視出来ないと気付くことさえ出来ない事が多々ある。
…ちょっと話が抽象的過ぎるかなぁ。
自分の例で言えば、職場でずっと早く死なねーかなーみたいに思ってた人がいて、その人のあり得ない行動の一つ一つに怒り、恨み言を吐いて、全力で排斥しようとした。
結果は言うまでもないよね。何も変わらなかった。
そのモードから、自分が強くなる事にシフトしたことで、関係性はみるみる変わっていき、適正なパワーバランスに落ち着いた。
あ、強くなる、じゃないな、強さを思い出す、だな。強さを認めてあげる、でもいい。
つまり自分を力ないものに設定していたが故に、何も出来ないから文句を言うだけの人になっていたのだ。
自分さえ許可してあげれば、いとも簡単に変革は起きるのだ。
あ、その許可が出来てない状態から許可を出すのは、全く簡単じゃないです(笑)
それが自分で自分の人生の課題として設定してるものだから、そりゃ手こずるように出来てるんだよね〜
でもそれは意地悪とか試練とかじゃなくて、やりたくてやってんだから、キタキタキタァ!って楽しんで、その後の溢れる幸せを満喫しよう✌️

そういうわけで、バランスはとっても大事なのです。
お釈迦さんの中道もこういうことなのかなー、あんまよく知らんけど(笑)

ちなみに、某吉良吉影さんの言葉「激しい喜びはいらない、そのかわり深い絶望もない…」みたいなのあったと思うけど、吉良さんの文脈とは全く違う方向性で良いものとして捉えてるのよねー
一過性の激しい喜びってやつは、劇薬みたいなもので中毒性があると思ってる。
スポーツとかゲームとか仕事とか、なんかこう勝利!とか成功!みたいな、他者のモノサシで決まる喜びのこと。
そういう喜びでなく、日々を生きる幸せ、たくさんのものを与えられている幸せ、自分を愛し愛される幸せというものを実感出来た時には、ちょっと前の記事のタイトルにも使った気がするけど、柔らかな幸せに包まれている、って感覚になるので、そっちでいたいよね〜
前者の激しい喜びの対は敗北などの絶望になるという対比なのだろうけど、後者の喜びには対なんてないのです。
まさにパーフェクトな愛(じゃないって本には書いてるって言いたくなるB'z脳)
ていうか吉良さん激しい喜びやりまくっとるやんけ!植物言うても猫草やんか!とついツッコミたくなるw

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