1922年、ひとりの若い女性が、札幌から東京へ向かう汽車に乗っていました。
彼女の名前は宇野千代。前の年に、新聞の懸賞小説で一等に選ばれたばかりの、まだ無名の書き手です。千代は、雑誌『中央公論』に送った原稿「墓を発く」が本当に載るのかどうかを、どうしても自分の目で確かめたくて、北海道から海を渡ってきたのです。
東京の出版社で、千代は原稿料として366円を受け取ります。大学を出た人の初任給が50〜60円ほどだった時代のことです。
札幌では、夫の藤村忠が帰りを待っていました。ところが千代は、札幌へ戻る途中で、若い作家・尾崎士郎と出会います。尾崎士郎は、のちに長編小説『人生劇場』で人気作家となる人です。千代はこの尾崎と恋に落ち、そのまま北海道へは戻らなかったと伝えられています。
この女性が、のちに作家として、編集者として、着物デザイナーとして、98歳まで現役で生きることになる宇野千代です。
10日で終わった、14歳の嫁入り
宇野千代は、1897年(明治30年)、山口県の岩国に近い横山村で生まれました。
生家は酒造業を営む旧家でしたが、父の俊次は家業を顧みず、賭け事や競馬にのめり込む人だったといいます。のちに千代自身が、父のことを「奇人」とも「狂人」とも振り返っているほどです。実の母は千代が幼いうちに亡くなり、千代を育てたのは継母のリュウでした。リュウは血のつながらない千代を、実の子と分け隔てなく愛したと伝えられています。
1911年、14歳になった千代は、父に命じられて、いとこの藤村亮一のもとへ嫁ぎます。けれどこの結婚生活は、わずか10日で終わり、千代は実家へ帰ってきます。
自分で選んだわけではない結婚が、たった10日で終わる。ふつうなら、そこで人生の行き先が決まってしまってもおかしくない出来事です。けれど千代の人生は、ここからが始まりでした。
恋文が町の噂になり、海を渡る
1914年、岩国の高等女学校を卒業した千代は、近くの村の小学校で代用教員として働き始めます。月給は8円でした。
ところが翌年、千代は同じ学校に赴任してきた男性教員と恋に落ちます。生徒に恋文を届けさせたという話まで残っており、二人の恋はたちまち町の噂になりました。千代は教員の職を離れ、その年の秋、ひとりで京城(今の韓国・ソウル)へ渡ります。
恋が噂になったら、身をひそめるのではなく、海を越えてしまう。宇野千代という人の行動の速さは、このころからすでに表れていたようです。
1916年に京城から戻った千代は、最初に嫁いだ藤村亮一の弟で、やはりいとこにあたる藤村忠を頼って京都へ行き、一緒に暮らし始めます。翌年、忠が東京帝国大学に進むと、千代も一緒に東京へ出ます。東京で千代は、雑誌の記者や家庭教師、店員、西洋料理店の給仕など、さまざまな仕事をして暮らしを立てました。1919年に千代は藤村忠と結婚し、二人は札幌で暮らし始めます。
賞金200円で、作家への扉が開く
札幌での暮らしの中で、千代は小説を書き始めます。
1921年1月、千代が書いた短編「脂粉の顔」が、『時事新報』という新聞の懸賞小説で一等に選ばれました。賞金は200円。代用教員の給料のおよそ2年分にあたる金額です。
翌1922年5月には、冒頭でご紹介した「墓を発く」が『中央公論』に掲載されます。『中央公論』は、当時の一流作家たちが作品を発表した総合雑誌です。地方に暮らす無名の女性が、そこに作品を載せたのです。
そしてこの年、千代は尾崎士郎と出会い、札幌の夫のもとへは戻らずに、東京で尾崎と暮らし始めます。1924年4月、千代は藤村忠と協議離婚し、尾崎士郎と正式に結婚しました。「宇野千代」という筆名を名乗るようになったのも、このころだとされています。
取材に行った「その日から」、画家と暮らし始める
尾崎士郎との結婚生活は、正式に結婚してから6年ほどで終わります。
その年、千代は小説の材料を求めて、洋画家の東郷青児に会いに行きます。東郷青児は、甘く夢見るような女性像で人気を集めた画家で、のちには美術団体・二科会を率いる存在にもなる人です。このころの東郷は、ある女性と心中未遂事件を起こし、世間を騒がせた直後でした。千代は、その事件の話を小説に書くために、東郷に取材を申し込んだのです。
そして千代は、取材で東郷に会った「その日から」、東郷と一緒に暮らし始めたと伝えられています。
二人は東京・世田谷に洋館を建てました。けれど建築費は借金でまかなっていたため、その返済のために、東郷は絵を描き続け、千代はその絵を売るために奔走したといいます。
東郷から聞いた心中未遂事件の話は、1933年から『中央公論』で連載が始まった小説『色ざんげ』になりました。男性の語りをそのまま聞き書きしたような文体で、千代の初期の代表作となった作品です。千代と東郷の暮らしは、4年ほどで終わります。
自分で雑誌を創り、自分で着物をデザインする
1936年6月、千代は「スタイル社」という出版社を自ら立ち上げ、ファッション雑誌『スタイル』を創刊します。日本の女性向けファッション雑誌のさきがけとされる雑誌です。
創刊号の表紙を描いたのは、藤田嗣治でした。藤田嗣治は、パリで「乳白色の肌」と呼ばれる独特の裸婦像を描いて、ヨーロッパで高い評価を受けた画家です。そんな画家に表紙を頼むところにも、千代の美意識と人脈の広さがうかがえます。
この雑誌の仕事を通して、千代は、新聞社の記者で作家でもあった北原武夫と出会います。北原が取材で千代のもとを訪れたあと、千代のほうが北原の勤める新聞社へ毎日のように通い、二人は親しくなったといいます。1939年4月、千代と北原は帝国ホテルで結婚式を挙げました。仲人を務めたのは、藤田嗣治と、少女小説『花物語』で知られる作家・吉屋信子です。
戦争が激しくなると、スタイル社は1944年に解散させられます。けれど戦争が終わるとすぐ、1946年2月に千代と北原は『スタイル』を復刊させ、物のない時代に大きな反響を呼びました。
1949年、千代は「宇野千代きもの研究所」を設立し、着物のデザインにも乗り出します。千代は自分でデザインした着物を自分で着て、自ら雑誌のモデルも務めました。1957年には、アメリカで自身のデザインした着物のショーも開いたとされています。
文学賞を受けた年に、会社が傾く
1957年は、宇野千代にとって、栄光と危機が同時に訪れた年でした。
この年の6月、千代は小説『おはん』を刊行します。『おはん』は、1950年から断続的に書き継がれ、完結までにおよそ7年をかけた作品です。千代はこの作品で、12月に野間文芸賞を受賞しました。
ところが同じ年、スタイル社は経営難に陥り、会社更生法の適用を受けます。税務署の査察や売り上げの落ち込みが重なったとされています。そして1959年、スタイル社は八千数百万円ともいわれる負債を抱えて倒産しました。
千代と北原は、銀座の土地も、別荘も、家も手放すことになったといわれています。それでも千代は、立ち止まりませんでした。北原が原稿を書き、千代が着物を売って、二人は借金を返していったと伝えられています。
結婚から25年が過ぎた1964年、千代と北原は離婚します。そして1966年、千代は「株式会社宇野千代」を設立し、着物の仕事でふたたび事業を始めました。このとき千代は、60代の終わりにさしかかっていました。
70代で、傷ついた桜のもとへ走る
1970年、70代に入った千代は、文芸評論家の小林秀雄から、ある桜の話を聞きます。小林秀雄は、日本の近代的な文芸批評を切り開いたとされる批評家です。
その桜は、岐阜県の根尾村(今の本巣市)にある淡墨桜(うすずみざくら)。樹齢1500年ともいわれる国の天然記念物ですが、当時は傷みが進み、すっかり弱っていました。
話を聞いた千代は、すぐに根尾村へ向かいます。そして弱った老木を目にすると、その木を救うために動き始め、募金を呼びかけるなどの活動に関わったといいます。
心を奪われたものがあれば、何歳であっても、すぐに走り出す。千代の行動の速さは、若いころから少しも変わっていませんでした。
84歳で、もう一度人生を語り直す
1982年2月、84歳になった千代は、毎日新聞で自伝的なエッセイ『生きて行く私』の連載を始めます。
14歳の嫁入りから、恋と結婚と離婚、雑誌の創刊と倒産、そして着物の仕事まで。自分の人生をまるごと語り直したこの連載は、翌1983年に本になり、100万部を超えるベストセラーになりました。
1990年には文化功労者に選ばれ、生まれ故郷の岩国市からは名誉市民の称号を贈られます。90代になっても、千代は書くことをやめませんでした。
1995年12月、98歳の千代が出した最後の本のタイトルは、『私何だか死なないような気がするんですよ』。
その半年後の1996年6月10日、宇野千代は98歳で亡くなりました。
恋をしても、失っても、倒産しても、年を重ねても。心が動いたものに向かって、宇野千代はいつも走り出していました。
この「走り出す力」は、どこから来ていたのでしょうか
2026年9月から放送中のNHK連続テレビ小説「ブラッサム」は、この宇野千代をモデルにした物語です。主人公の名前は葉野珠(はの・たま)で、ドラマは彼女の人生をもとにしたオリジナル作品ですが、実際の人生もまた、ドラマに負けないほど振れ幅の大きなものでした。
「恋多き作家」という言葉で片づけてしまうのは、少しもったいないと私は考えています。作家であり、編集者であり、着物デザイナーであり、経営者でもあった人。しかも、何度つまずいても仕事を手放さず、98歳まで書き続けた人です。
彼女の自由さは、気ままさではなく、選んだ結果まで引き受けて次の一歩に変える力だったのではないでしょうか。
ホロスコープは、その人が生まれたときの空を写した地図です。私は西洋占星術を「当てもの」ではなく、その人に生まれつき備わっている力の配置を読み解くための思想体系だと考えています。宇野千代という人の地図には、あの人生をそのまま映したような星の並びがありました。
出生時間がわからなくても、ここまで読めます
宇野千代は、1897年11月28日、山口県玖珂郡横山村(現在の岩国市)に生まれました。出生時間は記録が見つからないため、今回は便宜上、正午でチャートを作っています。
出生時間がわからないと、アセンダント(第一印象を示すポイント)や、天体がどのハウス(人生の分野を示す部屋)に入るかは確定できません。そのため今回はハウスを使わず、天体がどの星座にあるかと、天体どうしの角度(アスペクト)だけで読んでいきます。
1日で大きく動くのは月だけです。この日の月は山羊座から水瓶座へ移る途中にあり、14時55分ごろより前に生まれていれば山羊座、それ以降なら水瓶座になります。月以外の天体の星座と角度は、何時に生まれていてもほとんど変わりません。
出生時間がわからないことは、読めないことではありません。確かに読める部分と、幅を持たせて読む部分が分かれるだけです。
射手座に集まった星たち──思い立ったら、もう動いている
チャートを開いて、まず目に飛び込んでくるのは、射手座への星の集中です。
太陽、水星、火星、土星の4つが射手座にあり、さらに天王星が蠍座の最後の1度、射手座との境目ぎりぎりに位置しています。太陽・火星・土星・天王星の4天体はほぼ同じ場所に重なり合い、ひとつの大きな塊として働いています。
射手座は、遠くへ向かう星座です。知らない土地、新しい考え、まだ見ぬ可能性。そこへ向かって弓を引き、まっすぐに矢を放ちます。自由と冒険と拡大が、この星座のテーマです。
その射手座で、生き方の中心を示す太陽に、行動力の火星、継続と責任の土星、そして常識を破る天王星が重なっています。
私はこの組み合わせに、宇野千代の人生のほとんどが詰まっていると感じています。
火星と天王星が太陽に重なると、心が動いた瞬間に体が動きます。原稿の採否を確かめるために汽車に乗り、取材で出会った人とその日から暮らし始め、桜の話を聞けばすぐに岐阜へ向かいます。周りから見れば突拍子もない行動でも、本人の中では「動かない理由がない」のだと思います。
そして、ここに土星が加わっているのが、彼女の大きな特徴です。
土星は、時間をかけて形にする力、責任を引き受ける力を示す天体です。衝動だけの人なら、倒産した時点で筆を折っていたかもしれません。けれど彼女は、借金を返し終えるまで着物を売り続け、そこからもう一度会社を作り、98歳まで書き続けました。
飛び出す力と、続ける力。ふつうは相反するものとして語られるこの二つが、彼女の中では同じ場所に並んでいます。
次回は、作家としての才能と、人生の転機を読みます
射手座に集まった星たちは、宇野千代の人生のエンジンのようなものです。けれど、彼女のチャートにはまだ、読みどころがたくさん残っています。
誰にも手綱を握らせない蠍座の金星。人の心の奥まで降りていく言葉の力。節目ごとに現れた人との縁。そして、懸賞小説の入選、『スタイル』の創刊、倒産、『生きて行く私』のベストセラーといった人生の転機に、空ではどんな星が動いていたのか。
このシリーズでは、宇野千代の人生をいくつかの角度からホロスコープで読んでいきます。次回の第2回では、宇野千代の作家としての適性と、人生の転機を、星の動きと重ねながら読み解いていきます。
その後も、第3回ではいくつもの仕事を生きた人の才能の見つけ方を、第4回では何度も結婚した理由を、第5回では3人の夫との星の相性を読み解く予定です。
参考:宇野千代さん年譜、山口県観光サイト「宇野千代特集」、
NHK「ブラッサム」公式サイト
※チャートは出生時間不明のため正午で作成しています。ハウス・アセンダントは使用していません。