最初の三ヶ月は、あいさつ程度だった。
カウンターに座ると「いらっしゃいませ」と返ってくる。
帰り際に「ありがとうございました」。
それだけだった。
男は隣の席にいることもあれば、一つ空けた席にいることもあった。
いつも一人で、グラスを静かに回しながら、特に誰とも話さずにいた。
四ヶ月目のある夜、グラスを倒しそうになった。
肘が当たって、端に押し出してしまった。
「そっち傾いてる」
男の声だった。
見ると、視線だけこちらに向けていた。
それだけ言って、また正面を向いた。
それが最初の言葉だった。
そこから会えば一緒に飲むようになった。
純さんは口数が少ない。
こっちには一言なのに、バーテンダーは笑っている。
その差が、言葉にならないまま気になっていた。
半年後のある夜、酔いが少し入った状態で、純さんに初めて恋愛の話を始めた。
「マッチングアプリ、全然うまくいかなくて」
「そうか」
「何かコツとか、ありますか」
「やったことない」
「……そうですか」
「俺に聞くな」
それだけだった。
帰り際、グラスを返しながら、なんとなく口が動いた。
「でも僕は純さんに聞きたいです。」
計算ではなく、ある意味衝動だった。
純さんは応えなかった。
次の夜も、同じ席に来た。
今日は聞きたい気持ちを抑えた。
そして二週間後。
その夜は僕が先に来ていた。
純さんが入ってきて、一つ空けた席に座った。
しばらく静かだった。
グラスが置かれる音。
誰かが外を歩く気配。
純さんが口を開いた。
「お前、その女と会ったとき、喋ってたのはどっちだ」
しばらく考えた。「たぶん僕です。沈黙になると、焦って埋めてました」
ビールを飲んだ。
グラスを置いた。少し間があった。息を深く吐いてから口を開いた。
「お前の話なんか聞きたくない、聞きたいことがあれば向こうから聞いてくる。」
「相手が話すのを全身で聞け、もっと話したくなるように。」
それだけ言って、純さんは正面を向いた。
「でも、そもそもデートまでいけたのは1回だけです。」
「そうか。」
バーを出ると、空が少し白んでいた。
街灯の色がまだ残っていて、朝というより照明が切り替わる時間に見えた。
僕は歩きながら手帳を開いた。
走り書きで、言葉を残した。
作られた日の出みたいだった。