まず、ビブリオマンシー(書物占い)というものがありますが、これは、ある本をぱっと開いたところに、自分に必要なことが書かれている、という前提があります。
例えば、世界的によく用いられているのは聖書らしいですが、これは別にどんな本でも可能でしょう。
ただし、本の内容によっては、あまり向いていないものがあるので、聖書など、より本質的なことが書かれている本が一般的によく用いられている、のかもしれません。
極端に言うとこれは、経済学とか数学の本とかでも可能なわけですが、ただし、例えばマクロ経済学とかベクトルに関する数式が書かれているページが開いたとしても、そうした理論や数式と自分が知りたいこととの関連は、かなりわかりにくいです。
ですから、占いに使う本を選ぶときには、「この本がよさそう」という自分の感覚に従うわけですから、その時点で、ビブリオマンシーはすでに始まっている、という見方も可能です。
さて、ではなぜ、こうしたことが可能になるのか。
それは、自分が今、目にしている光景には、何一つ偶然にそうなっているものはない、という事実があるからです。
目の前の様子には何一つ偶然はない、だからこそ、「たまたま開いた」本のページに書かれていることにも、何一つ偶然はない、というわけです。
これは何もビブリオマンシーだけではなく、占いというもの全般に関しても言えることになります。
ですから、作為的に人をだます目的で構築されていない限り、どんな占いもそれなりに当たっています。
そして、ほぼすべての占いは、その占いを構築した人の誠心誠意の努力の産物であり、作為的に人をだます目的はそもそもありませんから、どんな占いもそれなりに当たっているというわけです。
「作為的に人をだます目的」という表現は穏当ではありませんが、例えばですが、白いものを「黒い」とか、犬を「猫」とか、というようなことを指しています。
しかし、言い間違いはまた日常茶飯事なので、そうした偶発的な言い間違いは除外して、ここでは、作為的に言い換えている場合のみを示します。
ですが、この世界の言説は、基本的にすり替えられているため、その中で本当のことを言おうとしたら、一時的にではあれ、「作為性に対抗するための作為性」が必要になるため、どうしても自分の方が「作為的に人をだます」目的があるとしか思えなくなりますし、また、そうとしか思えない「現実」を突きつけられたりもします。
さらに言うと、次元が変わるにつれて、根本的なニュアンスもまたひっくり返ります。
こうしたややこしさを踏まえないと、実際に訳が分からなくなります。
さて、話を戻しますが、この現実には偶然はないからこそ、極端に言うと、コインを投げた結果もまた、偶然ではありません。
コインを複数回投げれば、それは易と同様の情報をもたらしてくれます。
ただし、同時に何枚かを投げるのか、あるいは1枚のコインを何度か投げるのか、という違いはあるかもしれません。
これは乾電池で言うと、直列か並列かの違いに、ちょっと似ているのかもしれません。
同時に何枚かを投げるのが並列で、1枚のコインを何度か投げるのが直列、っぽい感じもします。
さて、それはともかく、これはもっと言うと、この現実をどのように切り取るか、という、いわば「切り口」の違いである、と捉えることもまた可能です。
ですから、いろいろな占いの違いは、「切り口」の違いである、ということなのでしょう。
ということは、どの占いがいいとか悪いとか、あるいは間違っているとか正しいとかではなく、その時その時に自分が知りたいことに応じて、最も適した「切り口」を選べばよい、ということでもあると思っています。
これは極端な話、例えばですが、心理学的なアドバイスを受けたとしても、それはあくまでも、「心理学的な「切り口」」以上のものではない、ということです。
「そのものそのまま」ではなく、そのものの「切り口」を捉えるというのは、言ってみれば「次元を一つ落とす」ということです。
例えばですが、立体の切り口は平面になりますが、これは、3次元の切り口は2次元になる、ということです。
平面の切り口は直線になりますが、これは、2次元の切り口は1次元になる、ということです。
ですから、占いというのも、何か占いたいものの「次元を一つ落とす」ことによって、捉えやすくしている、という感じでしょう。
そして、「次元を一つ落とす」ためには、実は、特定の要素に対しては「あえて目をつぶる」ことがどうしても必要になります。
例えばですが、立体を平面にするとき、その「奥行き」はそのままを感じることはできなくなります。
地球表面は球面なので、3次元でないとそのままを描くことはできませんが、それを地図として平面に落とし込むとき、例えば形がゆがんだり、面積がおかしくなったり、極地方が異様に拡大されたりなど、どうしても何らかの要素が「犠牲」になります。
逆に言うと、特定の要素を「犠牲」にする、つまり「あえて目をつぶる」ことによって、「次元を一つ落とす」ことが可能になります。
そうすると、いろいろと便利になるというのが実際あるわけです。
ですから、「次元を一つ落とす」という意味では、占いと観測行為とは、実質的に同じことをしていると言えます。
ただ、占いの場合には、フラスコとか望遠鏡や顕微鏡などの代わりに、ホロスコープやカードや名前や誕生日の情報などを「観測器具」や「測定器具」としている、ということです。
そして、占いの場合には、物理的な現実というより「心的現実」を対象としている、という違いはあるでしょう。
ですから、占いには「向き・不向き」はある、つまり、何を占うことに向いているか、あるいは向いていないかというのはあるでしょう。
これは、例えば地図でいうと、メルカトル図法は大陸の面積に関しては全く正しくなく、とりわけ極地方が大きく拡大されてしまいますが、これは、メルカトル図法は、ある地点における緯度と経度を知ることに特化しているためです。
メルカトル図法はそもそも、航海のために考案された図法ですから、航海のために緯度と経度を知ることにはとても向いていますが、大陸の大きさ、とりわけ極地方の大きさなどを知るためには不向きだ、ということになります。
例えばそのように、それぞれの占いには向き・不向きがある、つまり得意分野がある、ということになります。
さて、占いにはなぜ根拠があるのか、という話に関してはこのぐらいにして、ではなぜ、今までは占いに関しては否定的な見方が多かったのか、という話に移ります。
これは、今ではもうあまり強い風潮ではなくなりましたが、今でも伝統的な霊性とかでは、占いはよくないとか、占いの結果に左右されるなということを言いますし、また、占いには何の根拠もなく、ただ、何か言われると安心したり不安になる、という心理を利用して、気持ち的な慰めを見いだしているに過ぎない、みたいな捉え方があるようですが、これは結局のところ、「占いを信じるな」ということになります。
こうしたことは簡単に言うと、今までの歴史の大半では、「確固とした自我を確立する」ということがさしあたっての目標だったことによります。
つまり、「確固とした自我を確立する」ためには、自分の本性に恒常的に逆らい続ける必要が出るため、何らかの形で自分の本性を指摘する「占いというもの」は、文字通り「目の敵」にされてきたからです。
この、「自分の本性に恒常的に逆らい続ける」必要性は、木星の大赤斑としても反映されています。
これは、太陽系の構造や現象は、そもそも高次元である心の性質を、個人の心とは別の形で反映したものである、ということによっていますが、これは、太陽系が個人的な心の原因である、ということではありません。
そうではなく、個人的な心や太陽系の様子は、もっと高次の「何か」が、かたや個人の心として、かたや太陽系の様子として、一見すると全く関係のなさそうなものとして、それぞれ反映されたものである、ということです。
その「もっと高次の何か」は、それを「神」ということもあれば、それこそが本当の意味での「心」である、ということもあるかもしれません。
それはともかく、ですから、「自分の本性に恒常的に逆らい続ける」ためには、例えば木星の大赤斑と自分との間には、「いかなる関係もない」とする必要があったというわけです。
で、そうした時代はもうとっくに終わっているというのが、結構重要かなと、個人的には感じています。
で、こうしたことが間違っていたということではなく、今まではそうする必要があったということですが、ただ、それが必要な時代は終わっている、ということです。
ですから、占いを信じる・信じないとか、占いは当たっている・いないというより、例えばこうした諸事情により、何が重要なのか、何が正しいのかという価値観ですらも、場合によっては転変する、ということかなと思います。