「文法」としての占術

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今は知りませんがその昔、森田健という人が、「六爻(こう)占術」という占いに凝っていたことがあり、その当時私はそれを本で読みました。

なんかすごそうな占術でしたが、その中で気になったのは、「外応」というものでした。

詳しいことは忘れましたが、その占術の師匠は、部屋の窓の外をトンボが飛んでいたのだったか、とにかく、それぐらいありきたりの状況から未来を占っていました。

つまり、自分が目にするものには全て何らかの意味があり、その師匠はその占術に則った「読み方」を心得ていたため、そうしたごくありきたりの光景の中に潜在化している時空を読み取った、ということなのでしょう。

また、これは多分に著者の想像の産物ではないかと思いますが、五島勉が前世紀末にノストラダムス関係の本を大量に出版していた頃、彼はその本の中で、ノストラダムスが未来を見ている様子について、何かオカルト的な描写をしていました。

これも詳しいことは忘れたのと、私なりに記憶に「味付け」がされているであれですが、たぶんですが、ノストラダムスはホロスコープを何か「アクセスポイント」のようなものとして、アカシックレコードにアクセスしていたのではないかという気がします。

これも実際にこんなことをしたわけではないので、これはあくまでも私の想像の産物だということをあらかじめことわっておきますが、例えばですが、「1970年5月28日」とか「1945年8月15日」とかの、特定の日にちのホロスコープを元にして瞑想的になると、その時点の世界意識にアクセスするのではないか、という感じです。

たぶんこうしたことには、既に方法論が確立していると思うので、ご興味がある方はそうした向きの専門家に尋ねられた方がいいと思いますが。

いずれにせよこうしたことは、時空に潜在化しているものを何らかの形で読み取っていて、その読み取り方に無数のバリエーションがある、ということなのでしょう。

で、例えば「窓の外をトンボが飛んでいた」ということから未来を読み取るのは、先の師匠ぐらいに訓練を積んだ人でないと、そこからあまり多くの情報を得ることは、たぶんできません。

つまり、情報の「解像度」はかなり粗くなります。

ただしこれは、まるで情報が読み取れないということではなく、ただ、解像度はとても粗くなるだろう、ということです。

もう一つは、奇跡講座的に言うと、自分はそこに、自我の投影の意味を読むか、神の意味を読むか、という葛藤に陥っているため、意味の方向性自体には基本的に2種類ある、ということになります。

つまり、特定の状況に関して、そこに自我から投影された意味を読むか、神の意味を読むか、の、2つに一つだということです。

ただ、このことをわきまえていれば、意味には大きく分けると2種類しかなくて、後はただその無数のバリエーションがあるのみ、ということになります。

それからもう一つは、神の意味は通常、「とてつもなく恐ろしい」ものとして無意識に想定されている、ということがありますが、こうしたことの詳細は当記事の範囲を超えるため、ここでは立ち入りません。

さて、ですからそれぞれの占術の手法は、ざっくりいうと「切り口」をどう読むか、ということである、つまりこれは一種の「文法規則」のようなものとして捉えることができるかもしれません。

英語の場合、文法などを知らなければちんぷんかんぷんですが、一通り英語を習熟したら、それなりにすらすら読めるようになる、というようなものです。

この「読み方」はしかしずっと変わらないものではないようです。

例えば手相で言うと、頭脳線(知能線)が途中で途切れ、ずれたところから始まっている手相があります。

これ、昔の手相占いの本だと、「脳障害か、重いトラウマがあるか、交通事故に遭ったか、継母に育てられたか」と出ていました。

ちなみに、「継母」というのは「ままはは」とも言い、昔の童話などでよく登場します。

ところが、最近読んだ手相の本によると、この手相を持っている人は、運動神経が優れているのでスポーツをやるといいでしょう、みたいに書かれていました。

後は、良くも悪くも衝動的だというものとかですね。

ですから、後先考えずに行動してしまう、ということのようですから、これは確かに、運動神経が優れているという読みもあり得なくはありません。

で、つまり、昔の読みと今の読みとでは、ニュアンスが真逆と言っていいほど異なっている、ということです。

だからこそ、読みは基本的に自由と思ってもいいのではないかと思ったわけです。

ただし基本は共通している、つまり例えばこの例ですと、「思考の保持があまり続かず、しかもいったん途切れた後、別のところから再開する」、ということは共通していて、しかしそれをどう受け取るかがかなり異なっている、ということです。

私はこの手相があるため、昔からこの点に関して関心を持っていたので、自分の思考や意識の癖とこの手相とを照らし合わせて観察してきたため、例えばですがこれは、最初は普通の意識状態なのに、ある時点から突然、高次元の意識に転換するとか、必ず気が変わるとか、例えばいろいろな形として現れますが、しかし、「必ずいったん途切れ、別のところから再開する」ということ自体は共通しています。

しかし、例えば牛丼が食べたいと思って牛丼屋の前に行くと、なぜか急にカレーが食べたくなるので、カレー屋の前に行くと今度はラーメンが食べたくなるのでラーメン屋の前に行くと、また気が変わってやっぱり牛丼が食べたいとなり(以下繰り返し)、みたいな感じが一時期とても強かったので、自分に有無を言わせずに強引にでも決めない限りへとへとになるのが普通でしたが(笑)。

このことに関して派生的な言及をしますと、私は頭脳線(知能線)が左右で大きく異なっていて、実際のところ、ぶれていた方が自分らしくあるというぐらいの「ぶれぶり」なんですが、例えばこのように、左右で手相が大きく異なっている人が近年増えているようだ、ということをネットで見た記憶があります。

左右の手相が大きく食い違っているのは、物理的ではないものの、意識のレベルで一種の「機能性分離脳」のような状態が保持されるようにして脳内神経ネットワークの基礎が形成されている、ということを意味していますが、つまり、例えばこれぐらい、重いトラウマやストレス状態が「当たり前」のように意識に「刻印されて」いる人が増えている、ということらしいです。

もちろん、左右がほぼ同じ人でも非常に辛い体験をしている人がたくさんいるのは当然のこととしてですが、左右で線が大きく食い違うことにより、自分の苦悩を普段はそれほど自覚せずに済むようになるわけです。

それは、分離脳に関する研究を読むと察しが付いてきますが、分離脳の人は例えば、右目で見えるものを左脳的になら認識できますが、右脳的にはそれが存在していること自体が認識できない、といった特徴があります。

ですから、例えば右脳的にはトラウマでおかしくなるレベルでも、左脳が何とか機能していれば、日常的なことならこなせますが、そのようにして、とんでもない苦悩を抱え込みながら、しかし型通りの生活だけをしていればそれほど苦悩を自覚せずに済む、みたいな「適応策」となります。

また、ずっと以前に放映していた番組では、分離脳の人がとても愛にあふれていて、スタッフの人を両手を広げてにこやかに出迎える一方で、連想されたことを次々と口にする、といった場面がありました。

あの方は分離脳であるために、イエスの言う「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない」(マタイによる福音書、6:3)を地で行くことが可能だったのかもしれません。

(こういうことを言うと人によっては、「あなたは自分が「機能的分離脳」だから人より抜きんでていて、自分はイエスの言ったことを普通に実践できるから「てめーらとは違うんだぜ」と間接的に自慢したいわけか」とか、実にひねりの利いた「暗黙の意図」を行間から読み取るものですが、そういう方にとっては私はそうした「実に鼻持ちならない、いやらしい人」として存在しているのでしょうけど、ただし実際、人にはそういう「ダークサイド」もあるからこそ、「立体的理解」が可能になり、こうした「4次元文章」が普通に書けるようになるわけですよ。ですから、自分の「ダークサイド」を一方的に否認している人は、物事の理解が往々にして「一面的」にとどまりますが、月は地球から見て「一面的」なのであり、これがいいとか悪いとかではありません)

で、「自分がぶれていた方が気が楽」ということだけを取ると、いかにもとんでもない問題のように感じますが、これは反面、自分を脇に置いて完全に「相手の相手」として機能するようにと、意識回路がはじめから最適化されている、という捉え方もまた可能です。

例えばこのように、「トラウマはギフトである」というのは、実際にありますが、ただ、「自分の活かし方」は、一筋縄で見つかるものではなさそうです。

この理由の一つは、自分の才能は、通常、自分にだけは分からないという「実際問題」があります。

例えばですが、物事の理解がスムーズな人がいたとしますと、その人にとっては物事をスムーズに理解できることが「当たり前」であるため、それが自分の才能であるとは、まるで気がつきません。

それは本人にとっては「当たり前」である一方、他の人から見てそれと分かるものだからです。

ですから、「自分の「当たり前」は万人の「当たり前」」としている状態だと、そうした人は他の人を見て「人々はまともな理解力がないようだ」と見えるかもしれません。

そうするとその人は、理解力という才能を、他人にダメ出しをするためにだけ使うようになるかもしれません。

例えばこうしたことが言葉の本当の意味で「才能の無駄遣い」なんだろうと、最近は感じるようになりました。

結局、自分の才能とか特性とかと呼ばれるものも、あるいは傷とか病とか問題とか闇とかと言われるものも、それ自体では良いも悪いもなく、ただ、それをどう用いるかの違いがあるだけ、なのでしょう。

ですから、自分の現在の「持ち物」、これは物理的なものというより心のレベルでですが、これを自分を活かすために用いるか、自分を殺すために用いるかは、ひとえにただ自分の選択にのみかかっています。

「自分を殺す」というと物騒ですが、大半の人は「自分を殺して生きる」という生き方を当たり前のように選んでいるので、これは実のところ、割と「ありきたり」の生き方です。

ですから、そうした生き方から脱却するか、それともその路線で生きるかもまた、ただ自分次第だということです。

こうしたことが「割とありきたり」になっているのは、前の記事で言及したように、今までは「恒常的に自分に逆らって生きる」ことが普通だったり、むしろ奨励されてきたことによるもののようです。

「恒常的に自分に逆らって生きる」という状態から立ち上がっているのが、従来の意味での「自分」だったというのも関連しているでしょう。

ですから自意識を確立する過程ではどうしても、一時的に「自分に逆らい続ける」段階を経ないと、個人としてのまとまり感覚がそもそも持てません。

例えばこうしたところから自分を「読み解く」ための「文法」として、占いには未発見の潜在的な有用性や活用の仕方などがまだまだあると感じています。

そもそも、「占」という文字は亀甲文字であり、当時は占いの結果で政治の方針を決めていたという事情があったと言うぐらい、政治と占いとは密接な関連がありました。

これは昔読んだ本に書かれていたことですが、実は現代でも、大企業のオーナーなどは密かに専属のお抱え占い師を抱えていることがあるらしいです。

ですから、企業が成功する「秘訣」は、ビジネスの仕方だけではなく、占いの結果をどう活用するか、というのも、実はかなり大きかったのかもしれません。

それぐらい、占いは社会の水面下でかなり大きな影響力を有していたのでしょう。

ただし、十数年前から占いの結果が当たらなくなってきた、という話も聞いたことがあります。

これは、企業の成り行きなどに関する占いのことですが、個人的にはこれはおそらくですが、今までの方が一定の「誤訳」が生じていたからなのではないかという気がします。

例えばですが、「I can't apologize enough.」は、「大変申し訳ございません」という意味です。

これは感覚として分かりにくいのですが、これは、「私はどれだけ謝罪しても十分に謝罪しきることができない」という意味から「大変申し訳ございません」という意味になります。

ところがこれ、逐語訳だけで行くと、「私は謝罪することなどまるでできない」、つまり「謝罪はしません」みたいな意味にも、受け取れなくはありません。

もう一つ言うと、「エコノミック・アニマル」というのは、日本人を批判した言葉として知られていますが、これ実は「褒め言葉」だったという話が、誤訳に関する本に書かれています。

英語では、「~にとても熱心である」「~に関する才能がとてもある」というのを、「~アニマル」と表現するらしいです。

ですから、「日本人はエコノミック・アニマル」は、「日本人は経済活動に関して大変な才能がある」という意味で用いられたところ、これが「日本人は金に飢えた動物である」みたいな意味として紹介された、といういきさつだったようです。

ま、理知的に解釈すると、真の才能は「動物脳」を生かすことによっている、ということがあるのかもですが。

これはおそらく、日本人にはもともと、自分(たち)のことを自虐的に捉える癖があったため、まさか肯定的に評価されているとはとっさに理解できない表現に対して否定的なバイアスをかけて捉えてしまった、のでしょう。

例えばですが、こうした「誤訳」が今までは蔓延していたうえで、なぜかうまくいっていたものが、次第に通用しなくなってきた、というのを、一見すると、占いが当たらなくなってきたというように感じられたのではないか、というわけです。

言い換えると、今まで蔓延していた「誤訳」が通用しなくなってきたというのは、「正しい訳」の感覚が広まってきたからなんですが、それは従来の感覚では、「今までの訳のセンスではうまく訳せなくなってきた」感じになるというか。

こうしたことは、占いの結果をどう解釈するかという点において、先に少し言及したように、主として2種類の読みがある、ということと無関係ではないでしょう。

で、ここまで書いておいて「ただいま占いの勉強中です」と言うと、思いっきり引かれそうですが(笑)。
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