「いいね」の先にある小さな違和感の正体

「いいね」の先にある小さな違和感の正体

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コラム
SNSのタイムラインを眺めていると
時折胸のあたりが少し重くなるような
静かな違和感を覚えることがあります。

次々と流れてくる動画や投稿。

そこには
「どうすれば再生回数が伸びるか」
「どうすれば『いいね』を増やせるか」
という工夫がぎっしりと詰まっています。

視聴者の目を一瞬で引く強い見出し
感情を揺さぶる演出
次の行動を促す巧みな言葉遣い。


それらは確かに洗練されていて
現代の技術やノウハウの結晶とも言えるかもしれません。


けれど
そうした数字を追い求める熱量の影で
どこか置き去りにされているものが
あるような気がしてならないのです。


数字を増やすための活動の背後には
二つの大きな動機が見え隠れします。

ひとつは
「もっと自分を見てほしい」
「認められたい」
という承認への欲求。

もうひとつは
アクセス数をそのまま対価に変えようとする
収益化への欲望です。

どちらも人間としてごく自然な感情であり
生活や活動を支えるための
切実な選択であることは理解できます。


しかし
その目的が前面に出すぎたとき
発信の軸は
「誰かに何かを届けること」
から
「自分がどう評価されるか」
へとすり替わってしまいます。


視点がどこまでも「自分」に向いているのです。


「どう見られているか」
「いくらになるか」

という自己中心的な円環の中に閉じ閉じこもった発信は
どれほど華やかであっても
受け手の心にどこか乾いた風を吹き込みます。


画面の向こうにいる生身の人間を感じるのではなく
まるで「数値化された観客」として扱われているような
そんなかすかな寂しさを覚えてしまうのです。


かつて
言葉や表現というものは
もっと静かで個人的な体温を宿していたように思います。

誰かに伝えたい大切な想いがあったり
ふと気づいた世界の美しさを
誰かと分かち合いたかったり。

あるいは
自分の内側にある静かな問いかけをそっと形にしたり。

そうした発信の原点には
常に「相手」が存在していました。


届く相手の時間を思いやり
その心に届くように丁寧に言葉を選ぶ。

そこには
数字には換算できない
「人と人とのささやかな響き合い」
があったはずです。


もちろん
現代の社会において
数字や評価が無価値だと言うつもりはありません。

多くの人に届くことで救われる活動や
正当な対価を得ることで
守られる創作があることも事実です。


けれど
数字という目に見える指標は
あまりにも強烈です。

一度その魅力に引き込まれると
私たちはいつの間にか
「何を伝えるか」
よりも
「どう見られるか」
を優先してしまいがちになります。


そして
数字が増えること自体が目的化し
自分自身の心さえも
置き去りにしてしまうことがあります。


もしも
この数値化された喧騒から一歩だけ身を引いてみたら
どんな景色が見えるでしょうか。


誰かに誇るための実績ではなく
誰かをコントロールするための演出でもなく。

ただ
自分の内側から湧き出る素直な思いを
静かに置いておくような表現。

誰かに発見されなくても
たったひとりの心に届き
そこで小さく灯るような言葉。

それは
大きなバズを起こすことも
莫大な収益を生み出すこともないかもしれません。


けれど
そうした表現には
流行に流されない揺るぎない温もりが宿ります。

自分を大きく見せる必要も
評価に怯える必要もない
自由で穏やかな表現の場所です。


評価や承認を求める波の中に身を置くことは
時に心をすり減らします。

他人の視線や数字の増減に一喜一憂する生き方は
どこかで自分の人生の手綱を
他人に渡してしまうことにも似ています。


だからこそ
時にはスマートフォンを閉じて
静かな空間で自分の心と向き合ってみたくなります。


自分が本当に大切にしたい価値観は何なのか。


誰かとつながるとは
本来どういうことだったのか。


数字の多寡で
人の価値や表現の価値が決まるわけではありません。

誰にも気づかれないかもしれないけれど
誠実に紡がれた言葉や想いは
目に見えないところで誰かの記憶に深く残り続けるものです。


喧騒から少し離れたところで
静かに手を動かし
心を通わせる。

そんな温かな関係性を
これからも大切に守っていきたいと感じています。


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