実際、鹿島神宮を参拝し、違和感を感じましたので、鹿島神宮についての江戸幕府と明治政府の扱いの違いについて生成AIで調査しました。建物は江戸時代の建造物が遺っていました。確かに、戦後GHQにより神道禁止令が出されましたが、江戸幕府や明治政府でも何かあったように感じました。以下、生成AIの回答を紹介いたします。
AIプロンプト1:
鹿島神宮についての江戸幕府と明治政府の扱いの違いについて詳しく調べてください。
(生成AIの回答)
web検索で得た情報をもとに、鹿島神宮に対する江戸幕府と明治政府の扱いの違いを整理します。
江戸幕府による鹿島神宮の扱い
社領・経済的保護 徳川家康は慶長7年(1602年)に1,500石を加増し、鹿島神宮の社領は2,000石に及んだとされ、この社領は大宮司に100石、当禰宜に300石、大禰宜・大祝に各40石という形で神職に配分されていました。これは幕府による朱印地(税を免除された社領)として与えられたものです。
社殿の造営 歴代将軍による大規模な社殿造営が続きました。慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿(現・摂社奥宮の社殿)が造営され、元和5年(1619年)には徳川秀忠により現在の社殿一式が、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営されたと記録されています。楼門については、三代将軍家光の病気平癒を頼房が大宮司則広に依頼し、快方に向かったため奉納されたという逸話も伝わっています。
水戸藩による崇敬 地元を治める水戸藩からも篤い崇敬を受けました。九代藩主の徳川斉昭は弘道館や旭日丸船内へ鹿島神宮の御祭神の分霊を勧請したり、幕末に異国船が現れるなどの国難に際して祈祷を依頼したほか、天保5年には500名を超える家臣を引き連れて参詣し、歴代藩主最大規模の参詣となったといいます。
神仏習合の状態 江戸時代の鹿島神宮は仏教とも一体化しており、神宮関係の寺として護国院・広徳寺・正等寺・普済寺・安居寺・根本寺・涼泉寺・五台院等が存在し、中心的な別当寺であった護国院は真言宗仁和寺の末寺として「鹿島山」を山号とし、門徒寺を100近く有する有力寺院でした。
明治政府による扱いの転換
神仏分離・廃仏毀釈 明治維新は鹿島神宮にとって大きな断絶点となりました。江戸期に神宮と一体だった寺院群は、幕末の文久3年(1863年)に水戸天狗党によって、元治元年(1864年)には正義隊によって荒廃し、明治元年(1868年)10月に護国院は廃寺となったほか、他の関係寺院も明治初期の神仏分離政策の中でほとんどが姿を消し、現存するのは護国院のみという状態になりました。これは天皇の権威を強調し神道を国教化するため、明治政府が江戸幕府の将軍に対抗する形で天皇と神道を新時代の中心に据えた政策の一環でした。
社領の没収(上知令) 江戸幕府から与えられていた朱印地としての社領は、明治4年(1871年)の社寺領上知令により大きく変わりました。寺社境内以外の土地はすべて上知させられ、あわせて現石高の2割5分を禄米として支給するという措置がとられ、旧幕時代のような広大な社領を神社が直接保持する形は失われました。各藩が版籍奉還を行った以上、寺社だけが土地を私有するのは不相当だとする論理で、鹿島神宮も例外ではなかったと考えられます。
社格制度による序列化と国家管理 明治政府は明治4年5月14日、太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により近代社格制度を制定し、神社を官幣社・国幣社などに等級分けした。鹿島神宮は1871年(明治4年)に官幣大社に列せられ、国家が直接祭祀に関与する最高格の神社として位置づけられました。これは江戸幕府による「個別の武家的崇敬」から、明治政府による「国家神道体制への組み込み」への転換を意味します。官幣社は皇室(宮内省)から幣帛が供進される制度であり、将軍家個人・水戸藩という一大名家の崇敬対象から、天皇を頂点とする国家祭祀の体系に組み込まれた点が本質的な違いです。
神職人事の変化 世襲だった大宮司職も、明治政府のもとで国家による任命という性格を帯びるようになりました。鹿島神宮大宮司家出身の鹿島則文は、明治維新後の1869年に赦免され帰郷、神領会所(鹿島神領の役場)の廃止に伴ってその建物を学問所とし、1873年(明治6年)に鹿島神宮大宮司に就任、1884年には伊勢神宮の大宮司に任じられたという経歴を辿っており、神職が国家の官僚的位階制度の中に位置づけられていった様子がうかがえます。
まとめ
観点 江戸幕府 明治政府
性格 将軍家・水戸藩という特定の武家権力による個別的崇敬・保護 国家神道体制下での制度的な国家管理
経済基盤 朱印地として2,000石の社領を保証 上知令により社領を没収、禄米支給に転換
宗教的位置づけ 神仏習合を容認(護国院など多数の関係寺院と共存) 神仏分離・廃仏毀釈により仏教色を排除、純粋な神道施設に再編
社格 特に制度化された全国的序列はなし 近代社格制度により官幣大社として国家祭祀の頂点近くに位置づけ
建造物 将軍・藩主による造営・寄進が中心(本殿・楼門など) 直接的な建造物寄進より、制度・儀礼面での国家統制が中心
このように、江戸幕府の関与が「武家政権による篤い崇敬と経済的保護」という性格を持っていたのに対し、明治政府の関与は「国家神道の中核として制度的に組み込み、同時に神仏習合的要素を排除する」という、より体系的かつイデオロギー色の強いものであったと言えます。
AIプロンプト2:
鹿島神宮も江戸時代には20年毎の式年遷宮を行っていましたが、現在は行われていません。その理由について解説してください。
(生成AIの回答)
これまでの調査を踏まえ、鹿島神宮で式年遷宮(式年造営)が行われなくなった理由を整理します。
鹿島神宮における式年造営の歴史
鹿島神宮では、社伝によれば大宝元年(701年)に正殿・仮殿が造営され、この時から20年に一度の式年造営が定められたとされます。当初は社殿すべてを建て替えていましたが、弘仁3年(812年)には香取神宮・住吉大社とともに、正殿のみを建て替える形に簡略化されました。中世に入ると武家による神領侵犯が度々起こり、社殿造営費用にも事欠く状態となって、この制度は事実上機能しなくなっていきました。
江戸幕府による「恒久的社殿」への転換が転機に
この式年造営の慣行に決定的な変化をもたらしたのが、江戸幕府によるものでした。
• 慶長10年(1605年)、徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼として本殿を造営(後に奥宮の社殿として移築)
• 元和5年(1619年)、徳川秀忠が本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる現在の社殿一式を造営
• 寛永11年(1634年)、水戸藩初代藩主・徳川頼房が楼門を造営
これらは伊勢神宮のような掘立柱・茅葺きの簡素な建築ではなく、権現造という桃山建築様式を用いた、彩色や漆塗り、精緻な組物を施した恒久性の高い建造物でした。つまり、20年周期で作り替えることを前提とした簡易な建築から、長期間の使用に耐える本格的な建築へと様式そのものが転換したのです。実際、現在の鹿島神宮の本殿・拝殿・楼門などは、いずれもこの江戸初期の建物がそのまま重要文化財として残っており、400年以上にわたって「建て替えられていない」という事実そのものが、この時点で式年造営の慣行が実質的に終わったことを物語っています。
明治以降、再開されなかった要因
式年造営が江戸期に事実上停止した後、明治以降も再興されなかった背景には、いくつかの要因が重なっています。
1. 財政基盤の喪失 式年造営のような大規模造営には莫大な費用がかかりますが、これを支えていたのは将軍家・大名家という特定の権力者による直接的な資金提供でした。明治になると社寺領上知令(1871年)により2,000石の社領は没収され、禄米支給に切り替えられたため、神社独自の財源で将軍家クラスの造営を担うことは事実上不可能になりました。
2. 文化財としての保存規制 江戸期の社殿が重要文化財(旧・国宝保存法や古社寺保存法の対象)に指定されたことも大きな要因です。明治30年(1897年)の古社寺保存法以降、歴史的建造物は「保存すべき文化財」として法的に位置づけられるようになり、定期的に解体して新築するという式年遷宮の思想とは正反対に、既存の建物をできるだけ現状のまま維持・修復する方針が国全体で採られるようになりました。伊勢神宮のような「常に新しく作り替える」神社建築の思想と、鹿島神宮のように「江戸初期の意匠を保存する」文化財行政とは、根本的に相容れないものです。
3. 12年に一度の御船祭への「式年」の重心移動 なお、鹿島神宮に式年の制度そのものが完全に消えたわけではありません。12年に一度、午年に行われる式年大祭「御船祭」は戦国時代に一度中絶しましたが、明治3年(1870年)に再興されています。つまり鹿島神宮では、社殿を作り替える「式年造営」は江戸初期を最後に終わったものの、神事としての「式年」の観念は御船祭という別の形で明治期にむしろ復興され、現在まで続いているという点が興味深い特徴です。
まとめ
時期 状況
平安〜中世 20年ごとの正殿造替が制度としてあったが、中世には財政難で形骸化
江戸初期(1605〜1634年) 将軍家・水戸藩による本格的・恒久的な社殿造営で事実上終了
江戸中期〜明治以降 上知令による財源喪失、文化財保存の思想により再開されず
現在 社殿の作り替えは行われないが、12年に一度の御船祭に「式年」の観念が継承
つまり鹿島神宮の式年遷宮が行われなくなった直接の理由は、伊勢神宮と違って徳川将軍家が「作り替える前提」ではなく「恒久的に残す」ことを目的とした豪壮な社殿を寄進したことにあり、そこに明治以降の財政基盤の喪失と近代的な文化財保存制度が重なって、事実上の廃絶が固定化されたと理解できます。
AIプロンプト3:ありがとうございました。
どういたしまして。鹿島神宮の歴史、少しでもお役に立てたなら嬉しいです。また気になることがあれば、いつでもお声がけください。
(感想)
鹿島神宮は、江戸時代の建物が現存しており、伊勢神宮とは、異なる考え方で建造されたことが理解できました。
鹿島神宮に歴史的な建造物が多数現存していますので、一見の価値があります。令和8年 式年大祭御船祭(9/1~9/3)でしたが、9/5に最後のイベントがあります。
都合がつく方は、参加されることをお勧めいたします。