現代社会は兎角、他人に流され易く、ともすれば自分というものを見失いがちな時代である。ネット上には様々な情報が氾濫し、日常と言えば、雑事に忙殺されるような慌ただしい日々が、私たちの判断力を奪っている。
遥か昔の明治時代に、今日の現状を予言するようなことを考えていた作家がいた。明治の文壇を代表する文豪、夏目漱石である。彼は現代にも通ずるような、先進的な考え方を持っていた。その概念は、当時としてはまさに画期的なものであったに違いない。
1914年(大正3年)に学習院で行われた講演「私の個人主義」の中で、漱石は流麗且つ精緻な彼の文体そのままに、美しい言葉で彼の持論を語った。その講演は書籍として出版され、今日でも我々が手に取って読むことができる。
その講演の中で最初に彼が語ったことは、若き日の彼が専攻の英文学を学んで行く過程で体験した苦悩と煩悶、彼の持つ才能と文学への真摯な姿勢故に悩み、絶望し、自分自身を見失うような、留学先のロンドンで送った暗黒の日々についてである。
若き日の彼は、彼の言葉を借りれば「他人本位の人間」であったという。何でも他人任せで、根無し草のようにふわりふわりと浮世を漂う存在であった彼には、繰り返す日々が、何とも不愉快で、言いようのない倦怠感と閉塞感に満ちたものに感じられていた。
日々、学んでいる英文学についても、その本質というものを見出すことができず、どこか違和感を覚えても、そのはっきりとした原因を突き止めることもできない。そういった得体の知れない感覚に悩まされ、彼は次第に自分自身を見失って行った。
留学先のロンドンでも、自分の本当にやりたいことができず、自室に閉じ籠るようになった彼は鬱状態に陥ってしまった。幾ら書物を読み耽っても、街を彷徨い歩いても、自身の追い求める答えは見付からなかった。
そんな悶々とした日々の中、耐え難い孤独の中で彼はひたすら考え、気の遠くなるような苦悩と煩悶の日々を過ごし、やがて彼は一つの答えに辿り着いた。
それは彼が果てしない地獄のような日々を乗り越えた末に辿り着いた、彼の思考と想像力の集積のような結論であった。その答えとは、「自己本位」という確固たる自己の確立を意味する、崇高でありながら決して驕ることのない、唯一無二の概念である。
では、その「自己本位」とは一体、どういったものなのだろうか。端的に言えば、他人に盲従することなく、自分の頭で考え、一人の自立した人間として、自分なりの価値観を大切にして生きる、ということである。
自らの個性を大切にして、人生における様々な選択を自分なりの価値基準で決めること。まさに「他人に自身の生殺与奪の権利を与えないこと」にも繋がるこの考え方は、現代においてしばしば語られる、「自分軸」の概念と少し似通っているところがある。
自己本位に生きることで、人は自分らしく、自信を持って生きられるようになる。それは決して我儘や自分勝手という利己主義とは異なり、自己の個性を重んじると同時に、他者の個性も尊重するという、極めて理に適った考え方であった。
今日では、多くの人々が「個性の尊重」や「多様性」「自身の権利の主張」を声高に叫んでいるが、漱石が言うところでは、「その個性と個人の自由の尊重」にはそれなりの「義務」が伴う、ということである。
要するに、「自分が自由でありたいなら、他人の自由も認める必要がある」ということだ。自身の個性を尊重するのなら。他人の個性についても尊重しなければならない。その個性と自由の担保には義務と責任というものが条件として付随する、ということなのである。
この講演は学習院の学生、つまり将来的に日本を背負って立つ、選ばれしエリートたちに向けて行われたものであった。漱石自身も、将来的に国の根幹に携わる、彼らのような精鋭たちの前だからこそ、こういったことを語ったのだと思う。
漱石の思いが非常に強く表れた部分がある。それが「権力」と「金力」について論じた部分だ。
彼は、「権力というものは自身の個性を他人の頭の上に無理矢理に押し付けることができるもの」といったことを言っている。人は権力により、他人の個性を抑圧し、封じ込めることができる。それはすなわち、権力の濫用に他ならない。
従って、自己の保有する権力を行使する場合には、それに付随する義務を履行しなくてはならない。更に言えば、人格や道徳的修養のないものが権力を用いれば、その濫用によって社会に混乱を招き、人心の乱れる原因となる、ということだ。
漱石は、「金力」即ち財力についても同様の理論を展開している。「金力というものは何にでも変換できる、個性の拡張に有用なものであると同時に、他人の自由や個性、果ては精神さえも買収できるもの」といったような説明で金力について語る彼の論調からは、権力と共に金力に対する強い警戒感が透けて見える。
それらを保持し、使用する者には高い精神性と倫理観が求められ、それらを持たない者は決してそういった力を保持することも、使用することもあってはならない、というのが彼の主張である。
ここまで見て来ると、彼の考え方は極めて先進的であり、凡そ現代社会においても全く応用の利くものである、ということが分かる。明治という封建社会の残像が猶色濃く残る時代に、こういったことを主張していた人がいたことには素直に驚嘆を禁じ得ない。
私は夏目漱石の小説を学生時代から愛読しており、彼の極めて美麗な文章表現と緻密な構成には、何時でも魅了されるし、昔から彼のような文章を書くことに憧れを抱いている自分が何処かにいた。漱石は私自身の精神的な支柱であると共に、誰よりも敬愛する、人生最大の師でもある。
現代という混迷の時代に彼が生きていたら、一体何と言ってこの世の中を評するだろうか。それを考えると非常に面白くもあり、興味のあるところではある。