運が尽きるとき 3
運が尽きるとき というマイナーイメージなタイトルで書いているが、これはレプテリアンだろうが、鬼滅の鬼だろうが共通の運命の法則だから、人間でなければという限定法則ではない。 だから、鬼を食う羅刹、羅刹を食う魔神、その先はどうなるかというと、理趣経では魔神とて、仏道の悟りを得れば仏となるとしている。これがオーム真理教の大きな脱線になったりしたが、過去これらの思想は暴力革命に寄与してきたのではないかと思われる。白蓮教徒の乱、義和団事件など仏門が暴力革命を目指した歴史があるし、石山本願寺の反抗や叡山の僧兵などもこの思想がバックにあったろう。そしてこの経は危険といわれつつも葬られることなく存在している。どうも暴力と戦争というだけでは運は尽きないようだ。このような側面はキリスト教にもイスラム教にもあるのは引き出せばいくらでも例は上げられる。 ここで言いたいことは、プリゴジンとゼレンスキーは人殺しを続けているあいだは運がつながっているということだ。プリゴジンは活動の場を白ロシアに移したようだが、戦争を続けるのはわかっている。 スナイプスの映画で悪役と対峙した時、スナイプスが「いつも黒にかけろ」と捨て台詞を悪役に投げるが、悪い奴はいつも悪い方を選択する。これが運をつないでいくことだ。 だが我々はそう悪いことして生活していけないから、いい方をつないでいかないといけない。そのよい運の連鎖を切ってしまうことが運が尽きるときということだ。
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