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緩和ケア病院に早く出会いたかった...

誕生日からしばらくした頃から、母の腹痛がひどくなりました。 腸にガンが見つかり、恐らくその部位が腸閉塞を起こしているようで、その部分が痛むようでした。 しかし、母のような患者さんには、緊急で行われる手術のような処置は命に係わることだったためできず、ただ、痛みを緩和することしかできませんでした。 そして、その痛み止めもモルヒネに変わり、少しずつ眠る時間が増えてきました。 モルヒネの点滴を始めると、母の痛みは少しづつ散らせるようになっていったのですが、その反対に、薬が切れてくるとあの恐ろしい「せん妄」が悪化していきました。 本人は、寝てしまうことを恐れていました。 だから、なるべく起きていようと必死になる度に、体の拒絶反応なのかせん妄が強く出るようになりました。 そのころ、緊急入院をしていた母は、2か月という期間でしか入院できなかったのと、治る見込みのない患者さんの最期を過ごせないということを、看護婦さんと主治医に説明され、すぐに緩和ケア病院を探すことになりました。 最初は、兄夫婦の近くの病院を探す予定だったのですが、私が住む県の病院を探すことになりました。 病院には、こういった相談を乗ってくれるソーシャルワーカーさんがいてくれるので、すぐに相談に行きました。 そして、細かな支持をしてくださり、無事に転院先を見つけ、手続きもしてもらうことができました。 1時間30分もかけて移動することは、簡単なことではありませんでした。 医療タクシーに一人看護師さんが付いてくれていたことが、とても心強かったことを思い出します。 また、運転ドライバーさんも、本当に親切で丁寧で、ゆっくりと慎重に母が苦
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誕生日が辛い日に...

母を転倒させてしまったのは、実は母の誕生日でした。 そして、翌日は私の誕生日。 小さい頃は、母と1日違いの誕生日を、お友達や兄に自慢していました。 母は、いつも兄の事ばかりひいきするから、たまには私が優先されたい!という気持ちが働いて、そんなことを言っていたのだろうと今では思えますが(笑) 余談でしたが... 母の誕生日だというのに、おでこに大きなたんこぶを作らせてしまったことに、とてつもない罪悪感を感じながら、その日は病院で小さなケーキを買って、兄夫婦と私と母の4人でお祝いをしました。 その時から、母のせん妄は余計にひどくなりました。 みんなでケーキを食べているときも、母は私の事を 「誰?」みたいな顔で見つめてきたり、ケーキを一口食べる?と兄に聞いているのに、私には一つも聞いてくれなかったり、翌日は私の誕生日なんだよね!って兄が話を振ると、そんなこと知らないといった感じで話をスルーされたりと、私的にはかなりショックで辛い時間となりました。 その夜は、私が病室に泊まる日だったので、自宅に帰りたい気持ちを抑えつつも、頑張って看病しよう!と決意し、兄夫婦を見送りました。 母は、夜中うつらうつらしながらも、あまり眠れずに起き上がろうとしたり、酸素の紐を外してしまったり、私を呼んで水を飲ませてくれと10分おきに起こしてきたりと、ハードな夜となりました。 しかし、朝方、私が仮眠から目を覚まして母の事を覗きこんだ時、母はスマホのアルバムを見ていました。 震える手で、ゆっくりスライドしながら写真や動画を見ていました。 私の末っ子の写真を見て「〇〇ちゃん、本当にかわいいね~」とつぶやいているの
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せん妄という地獄

母が緊急入院をして、精密検査をした辺りから母の様態は日に日に悪くなりました。 精密検査では、リンパ節転移、肺、肝臓、腸にあちこちにガンが広がっていきました。 今の時代は、本人に残酷にもすべて告知されてしまうので、気丈であった母もかなり落ち込んでいました。 先生には、治療をすると体が今以上に辛くなってしまうため、ゆっくり休むことがいいのでは?と... その言葉は、つまり、亡くなるその日まで手の施しようがないという意味を表していました。 その頃から、母の様子が少しずつおかしくなっていきました。 今まで、私たちの事まで気を使ってくれていた母が、気持ちと体に余裕がなくなったせいで、看護師や家族に横柄な態度をとるようになりました。 特に、私には何でも言いやすかったのか、身の周りの世話をとにかく細かく要求するようになりました。 そのころ、腸に転移していたため腸閉塞を起こしていました。なので、便が出なくてイライラしていました。 母は、この病院がちょっと怪しいから、見張っておきなさい!とか もしかしたら、お母さん妊娠しているから、ここで産めるか看護師さんに相談してほしいとか 部屋の角からキツネさんが見ているから怖い。部屋を変えてほしいとか... せん妄という症状の特徴です。 過度なストレスや栄養失調などの悪条件が重なると、このような症状ができることがあるようです。 母の体は、158cmで60㎏。腹水が溜まり68㎏まで増えていました。緊急入院をして1か月くらいベットで寝たきりだったので、起き上がることもままならない状態だったのに、母は「トイレに行く!」といって、自力でトイレに行くことに執着してい
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父の心の中は...

あの日以来 私は父の電話に出ないことが増えました。 その頃、母に父の事を相談したのですが... 「お父さんの助けが今のお前なんだから、ちょっと寄り添ってあげてもらえると助かる...」といって、見放された気分でした。 両親ってなんなんだろう.... 父の場合、ストレスからくるせん妄ということは、何となくわかっていました。幻覚や妄想がひどくなり、常にパニックになるような感じでした。 母はそんな父の変化を、直視することができなかったんだと思います。 だから、弱音が吐けなかったし、誰かに頼れる人もいなかった。 でも、病を患うってこういうことなんだなって思いました。 人の死は、必ず訪れるものです。 でも、こんな風になるなんて思ってもみなかったです。 父の弱さを、目の当たりにして 本当に絶望を感じていました。 でも、死とはこういうことなんだ!っと、悟りました。 それと同時に、父の心の中が 寂しくて苦しい悲しいものに覆われていることに気が付きました。 せん妄が出ている最中、父はいつも誰かに怯えていました。 「キツネが俺を見ている」 「家長は俺だ!絶対に逆らうんじゃない!俺が絶対なんだ!」 などと、怒鳴ったり、暴れたりしました。 家にいると、自力で立つこともできなくなってしまったので、父は入院をしました。入院手続きで病室を空けるだけで、父は大声で母や私を呼び叫びました。俺を置いていくのか!!と、ひどく怒りました。 2~3日は、看護師さんも優しく接してくれましたが、どんどん暴れる父を、病院は危険人物として見なし、腕や足を縛るようになりました。 その姿を見るのは、本当に辛かったです。 しかし、ベッ
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ガン患者の家族の苦しみ

はじめまして。私は、両親をガンで亡くしました。父は胃ガン母は子宮体ガン二人の介護は、本当に辛く苦しいものでした。私は、19歳の時にパニック障害と診断をされました。小さい頃から多方面で敏感症で、空気を読む天才といわれたくらい周囲に目を配る子供でした。今思うと、HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)だったんだなって思います。その性質なゆえ、両親のガンと向き合うことが本当に苦痛でした。世間で上手にやりくりできてしまう私は、誰にも相談をすることができませんでした。病棟では、ガン患者とその家族に対して、カウンセラーの方が相談に乗ってくれるサービスもあったのですが、まったく癒されたことがありませんでした。むしろ、カウンセラーの方が来ると、逆に気を使ってしまったり、癒えたフリをしないと問題扱いをされてしまうので、その時間が苦痛でしかありませんでした。ガン患者を持つ家族は、自分の心のケアなんてしている暇はありません。一番心を病んでしまっている家族のために、何かをしてあげようと必死になることでしょう。しかし、実は、ここに大きな落とし穴があります。ケアをしている人が、自分をしっかり守ってあげることでガンを患っている家族を、救うことができるようになります。現実は、とても残酷な場面をいくらでも突き付けてきます。介護している人を、どんどん追い詰めていきます。そこには、やり場のない気持ちだけが育っていくのです。まずは「気づく」ことが大切です。病を治そう!とするよりも戦うよりも今に「在る」ことです。
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