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認定はいらんから

長いお休みをしていました。いろいろなことがありました。心を扱う者として、考えさせられることの多い時間でした。今更ですが幼少期の記憶・体験はカウンセリングのコアテーマです。どんな親にどう育てられたかは、人格形成のカナメ。ただ・・・大人になってから、その人に「幼少期の愛情不足」や「愛情過多」を見出し『ちゃんと子供でいられなかった可哀想な人』とだけ位置付けるのは、いかがなものでしょう?既に他界・または年老いた親に対しての責め今、まさに「親」になっている本人に不安を募らせる・・・不毛。子供は無邪気で天真爛漫に、夢を抱いて成長できるのが理想ではあるけれど、生まれた場所・時代・個人の性質によって差異があるのが現実。  そもそも「子供らしいこども」の定義って? 『可哀想認定』よりも今、しんどいことを乗り越える後押しをしたい。子供のころに、取りこぼしたことでも今、カタチは少し違っても、埋められるものが多いことを伝えたい。子供の心と大人の心、実は同じ自分の中にあるもので死ぬまで必ず、みんな両方持っているから。 
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自分の「居場所」

ヘレンケラーの言葉を一つご紹介します。「ローマの都から追放されても、ただ都の外で暮らすだけのことではないか」慣れ親しんだ環境から離れてしまっても、それは場所が変わっただけのことで生きていくという事には何も変わりはない。直訳するとそういう意味ですが本当は「世間一般の価値観に振り回され、大切なことを見失ってはいないだろうか?」ということを問いかけているんだと思っています。いま、色々大変な時期が続いていて元の暮らしに戻ることだけが幸せなのか自分なりの幸せを新たに考えていくのかという分岐点に立っていらっしゃる方も多いと感じます。人は、時として残酷でそして大きな勘違いをします。「助けが必要な人を、自分が導いてあげなくては」と。ただ、その導きはたいてい、「ローマから追放されないため」要は「一般社会・一般常識から外れないため」のもの。やむなく飛び出していった人に対して「可哀想」というレッテルを貼って満足する。これは育児でも、結婚生活でも、親との関係の悩みでも同じ現象が起き更に、一旦貼られた「可哀想」のレッテルがいつまでも邪魔をするんです。頑張って、一生懸命生きていることは何も変わらないのに。「優しさ」って、なんなんでしょうね。ただ、自分の人生を振り返って気付いたことは人生に絶望したい時には、優しさが邪魔になるし自分で波に乗りたい時も、優しさが邪魔になるということ。今はそれを教訓にしてその「優しさ」は、今の相手の状態にマッチしているか?相手の視点に立てているか?常に自分に問いかけるようにしています。
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