私は、自分という存在に備わっている機能を正しく、できるだけ十分に使って生きたいのだと思う。
それは「使命を果たしたい」とは少し違う。
誰かを救わなければならないからでも、世界の役に立たなければならないからでもない。
歩いていて倒れたゴミ箱を見つけたら、起こす。
散らばったゴミがあれば、ついでに拾う。
見えていて自分にできるなら、自然に手が動く。
私にとっては、それを「親切」と呼ぶことにも少し違和感がある。
ただ、自分の機能がその場で自然に働いただけだから。
昔から私は何かを受け取り、それを言葉にすることをしてきた。
子どもの頃から物語を書き、自分の中から湧いてくるものだけでなく、地上の下、地球のようなところから伝わってくる何かを、自分が文章にしたいと切望していた。
後になって思えば、それは今の私がチャネリングと呼んでいるものと、ずいぶんよく似ている。
チャネリング・リーディングをした後には、ほかの何かを達成したときとは違う、深い充足がある。
嬉しい、楽しい、満足した、という感情よりももっと深い場所で、
「自分が本来の働きをした」
とでもいうような感覚。
だから私は、魂の音を聴きたいのだと思う。
人の性格を分類したいわけではない。
その人を改善したいわけでもない。
その人という存在のもっと大元にある、魂のエネルギー。
その質感や動き、向かう方向。
それが人として生きる中で、性格になり、才能になり、選択になり、仕事や関係や人生のさまざまな姿になって現れていく。
私は、その源に近いところを観測したい。
そして、そこで受け取ったものを、できるだけ形を変えずに言葉へ置き換え、本人へ渡したい。
私が美しいと思うのも、たぶん同じところにある。
美しくしてあげたいのではない。
何か素敵な物語を与えたいのでもない。
そのものが、そのものとして在り、本来の機能を発揮していること自体が美しい。
だから、もともとそこにある美しさを、美しいまま見せたい。
そして、人からときどき言われる「純粋」という言葉も、私にとってはきっと、心が綺麗とか、無垢とか、うぶという意味ではない。
いろいろな経験をして、迷ったり、怖がったり、余計なものを背負ったりしても、
自分が本来どう動く存在なのかを、どこかで忘れていないこと。
機能に忠実であること。
そこから大きく離れたときには、「違う」と分かること。
そしてまた戻ってくること。
私にとっての「純粋さ」は、
原型への忠実さなのかもしれない。
だから魂の観測所でやりたいことも、結局は同じ。
誰かを別の何かにするのではなく、
「あなたという存在は、本来どんなふうに響き、どんなふうに動くものなのか」
それを観測して、言葉にして、その人の前へそっと置く。
あとは、その人のもの。
私は観測して、伝える。
たぶん私は昔から、ずっとそれがしたかったんだと思う。