スピリチュアルと精神性

スピリチュアルと精神性

記事
コラム
「スピリチュアル」という言葉を、以前から見かける。

波動、引き寄せ、浄化、エネルギー。

SNSを開けば、その言葉たちは日常の隅々にまで浸透している。

占いもタロットもパワーストーンも、いつのまにか同じ棚に並べられ、
「なんとなく癒される」ものとして、ひとまとめに消費されている。

そこで私自身、タロットという道具を扱う人間だからこそ、あえて問いたい。

「スピリチュアル」という言葉を掲げながらやっていることの実態に、
「精神性」は本当に伴っているだろうか。

「精神性」とは、何か


まず、言葉を整理したい。

日本語では「スピリチュアル」を「霊性」と訳すこともあるが、
その言葉から受ける印象は人によって大きく異なる。

そのためか、現在ではカタカナの「スピリチュアル」が、
そのまま使われる場面も多い。

つまり、この言葉は本来、「精神性の高さ」を直接表すものではない。
それが、いつのまにか「心が繊細な人」「精神性の高い人」を示す記号として使われる場面も増えているように見える。

ならば、本来の意味はさておき、実質を見てみたい。

人それぞれ定義はあるだろう。だからこれは、あくまで私自身の考えだ。

私が思う「精神性」とは、人々の不安を解きほぐし、現実の生活の支えとなる姿勢のことである。

少なくとも私は、そのような姿勢が伴っているかどうかで、その実態は測れると考えている。

対して、不安を煽る者たちの構造


初めに断っておきたいのは、スピリチュアリストの全てがそうだ、
と言いたいわけではない。

ただ、言葉が目立つ者ほど、矢面に立たされやすい。

そして一般の人々には、その目立つ声こそが
「スピリチュアリストとはそういうものだ」という像として、
そのまま受け取られやすい。

その目立つ声の中に、「スピリチュアリスト」を名乗りながら、
大きな不安を呼ぶ予言を、次から次に口にする人たちがいる。

災厄、不穏な未来、取り残される者と選ばれる者を分ける物語。

そうした言葉を公言したあと、その予言がどう受け止められ、
どう影響したかまで、果たして見届けているだろうか。

当たれば評判は静かに積み上がっていくだろう。

一方で、外れたときは、
「世界線が変わった」「多くの人の祈りで回避された」といった、
検証の難しい説明へと、そっと言い換えられていくことも多い。

その裏で、実際に振り回された人たちがいる。
不安に眠れなくなった人、大きな決断を先延ばしにした人、
時には生活や命に関わる選択を誤らされた人。
その被害は、誰にも回収されない。

評判という利益だけが一方的に発信者側に積もり、
リスクと痛みだけが受け手側に積もる。

この非対称性を、私はどうしても看過できない。

不安を煽ることで生まれる「依存」を燃料にする商売は、
私には精神性とは相容れないように思える。

精神性があるなら、その行動方針は逆のはずだからだ。

* 不確実な未来と共に生きる力を、少しずつ育てること
* 相手を現実の選択と行動に戻すこと
* 外れた予言、間違った助言を検証し、責任を引き受けること
* 相手を対等な人間として扱うこと

実際には、これと逆のことが起きている場合も少なくない。

不安を煽ることで依存を生み、
うまくいかない理由を「カルマ」「憑依」「波動」といった、
本人の手の届かない場所に預けてしまう。

検証をしないまま、当たったことだけが語られていく。
そして地道に現実と向き合っている人たちに対して、
「近道を知らない」というまなざしを向けてしまってはいないだろうか。

そこに、精神性はあるだろうか。

それでも、スピリチュアルに希望を持つ人たちがいる


ここまで書いてきて、ひとつ振り返る。

なぜ、精神性の伴わない「スピリチュアル」が、これほど支持されるのか。

一つには、不確実さに耐える力の問題がある。

人は、その力をあらかじめ十分には持っていない。

孤独に、答えのない問いに、ただ座り続けることは苦しい。

そこに即効性のある物語が差し出されれば、
手を伸ばしてしまうのは、弱さではなく、人間として自然なことだ。

もう一つには、それとは別の、もっと素直な感情がある。

目に見えない神秘性への憧れ、人智を超えた何かへの希望――それ自体は、
不安からの逃避とは違う、人間が古くから持ち続けてきた自然な感情だ。

神域に足を踏み入れたときに抱く畏れと、同じ根から生まれている。

目に見えない力を扱うからこそ、
その言葉には、目に見える仕事以上の慎重さが求められる。

なぜなら、その内容を簡単には検証できないからだ。

証明できないものを語る言葉は、軽ければ軽いほど、
実態のなさをそのまま覆い隠してしまう。

問題は、その物語を差し出す側が、
差し出した責任を引き受けていないことにある。

名乗る側の怠慢であって、頼る側の愚かさではない。

二つ、問いかけたいこと


これは、誰かを裁くための言葉ではなく、私自身にも向けている問いだ。

「スピリチュアル」という言葉に、
最初に触れたときのあなたと、今のあなたに、
違いはないだろうか。

そして、「スピリチュアリスト」と名乗ったとき、
目の前の相手の表情は、どう見えているだろうか。

結びに


「スピリチュアル」を名乗ることは、誰にでも自由だ。

私はその言葉自体を憎んでいるわけではない。

ただ、その言葉に見合う「精神性」

――不安を煽るのではなく解きほぐし、
現実から人を遠ざけるのではなく現実の支えになること――

それが伴っているか。

名乗る側も、それを受け取る側も、
時々立ち止まって問い直してみないだろうか。

看板の煌びやかさと、実際にその手が誰かの生活をどれだけ支えたか。

その二つは、決して同じものではない。

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