最近、若い世代にはパソコンを使うのが苦手な人が増えている、という話を耳にする。
スマートフォンがあれば大抵のことができるのだから、わざわざパソコンを使う必要がない、ということらしい。
確かに、スマートフォンは便利だ。
買い物も、銀行の手続きも、動画の視聴も、SNSへの投稿も、ほとんど手元で済んでしまう。
写真の加工や動画編集だってできるし、最近ではAIを使って画像や文章まで作れる。
ただ、私は以前から、この「スマホで何でも完結する」という言葉に少し違和感を持っていた。
それは、本当に「完結している」と言えるのだろうか。
「利用できる」と「作れる」は同じではない
例えば、ネットショッピング。
消費者はスマートフォンで商品を探し、購入し、決済する。
確かに、買い物という目的はスマートフォンだけで完結する。
しかし、その商品を販売する側はどうだろう。
商品を企画し、写真を撮影し、画像を加工し、商品ページを制作し、販売の仕組みを整える。
そこには、購入する側からは見えない数多くの工程が存在する。
もちろん、販売する側の作業にもスマートフォンで対応できるものはある。
ただ、消費者としてサービスを利用できることと、そのサービスを提供する側の仕事を自由に行えることは、まったく別の話だ。
これは、私が仕事にしているグラフィックデザインや映像制作でも同じことが言える。
タブレットでAdobeが使える。それで十分なのか?
現在は、タブレットでもPhotoshopやIllustratorといったAdobeのアプリを使うことができる。
Apple Pencilを使って直接描画できるのは便利だし、私自身もタブレットを制作の道具として活用することには大いに賛成だ。
ただし、タブレット版のアプリと、パソコンで使うデスクトップ版では、利用できる機能や制作環境が必ずしも同じではない。
私にとって、タブレットは制作を助けてくれる道具の一つだ。
少々乱暴な例えだが、ファミコン(笑)でいうところのコントローラーに近い感覚かもしれない。
もちろん、タブレット自体にも処理能力があり、単独で制作できることは承知している。
それでも、制作環境全体を置き換えるものというより、目的に応じて使い分ける道具だと考えている。
例えば、タブレットで美しいイラストやロゴを完成させたとする。
その制作物が十分な品質を持っていることもあるだろう。
しかし、クライアントから特殊な修正を求められたり、印刷会社から特定のデータ処理を指定されたりしたらどうだろう。
使っているアプリに必要な機能がなければ、別の制作環境が必要になることもある。
そこで対応できなくなってしまうなら、その仕事は本当にタブレットだけで完結していたと言えるのだろうか。
もちろん、すべての仕事に高度な機能が必要なわけではない。
問題は、自分がやりたいことに合わせて道具を選んでいるのか、それとも道具にできることを決められているのか、ということだ。
CanvaやAIは、クリエーターの可能性を広げたのか
近年、Canvaや画像生成AIの普及によって、専門的な制作ソフトを扱えなくても、見栄えのよいデザインを作れるようになった。
これは素晴らしい進歩だと思う。
かつては専門知識や高価な機材が必要だったことを、誰でも手軽に試せるようになったのだから。
一方で、少し気になることもある。
例えば、Canvaでテンプレートを選び、写真や文字を差し替えれば、それらしいチラシが完成する。
AIにイメージを伝えれば、短時間で何枚もの画像が生成される。
もちろん、そこにも選択や判断はある。
テンプレートを利用すること自体が悪いわけでもないし、AIを使った制作を否定するつもりもない。
ただ、その先はどうだろう。
自分が思い描いた表現がテンプレートに存在しなかったら。
AIが何度生成しても、求めるものにならなかったら。
クライアントから、用意された機能では対応できない要求をされたら。
そのとき、別の方法を考えるだろうか。
それとも、使っているツールではできないからと諦めてしまうだろうか。
私が気になっているのは、そこなのだ。
道具を使いこなすことと、道具に自分の可能性を決められてしまうことは違う。
答えを作ることから、答えを選ぶことへ
もう少し根本的な話をしてみたい。
私たちは今、非常に多くの答えがあらかじめ用意された環境で暮らしている。
何かわからないことがあれば検索すればいい(最近では検索する必要すらない)。
欲しいものがあれば、数え切れないほどの商品から選べる(最近ではタイムラインに流れているものから欲しいものを探す風潮すらある)。
デザインを作りたければテンプレートを探せばいい。
AIに相談すれば、アイデアや解決策まで提示してくれる。
便利になったことは間違いない。
ただ、かつては自分で考え、試行錯誤しながら導き出していた答えを、今は用意された選択肢の中から選ぶことで済ませられる場面が増えた。
もちろん、昔から答えを選ぶ場面はあったし、今でも自分で答えを生み出している人は大勢いる。
これは世代の優劣を論じたいわけではない。
私が疑問に思うのは、答えが簡単に手に入る環境が、自分で答えを考える機会まで減らしていないだろうか、ということだ。
何かを実現したいと思ったとき、すぐに解決策が見つかるのはありがたい。
しかし、解決策が見つからなかったときに、自分で考える習慣がなければどうなるだろう。
これは単なる知識や技術の問題ではない。
そもそも、用意された選択肢の外側に別の可能性があると考えられるかどうか。
その違いは、ものづくりに携わる人間にとって、決して小さくないと思う。
便利さは、思考を自由にするのか
便利な道具は、面倒な作業から私たちを解放してくれる。
その分、より創造的なことに時間を使えるようになる。
一方で、道具があまりにも多くのことを代わりに考えてくれるようになれば、自分で試行錯誤する必要性そのものが薄れてしまう可能性もある。
便利な道具を使うことと、思考を止めることは、本来別の話だ。
しかし、便利さに慣れすぎることで、知らず知らずのうちに考える機会を手放してしまうことはないだろうか。
例えば、デザインの仕事では、最初から正解が用意されているとは限らない。
クライアントの要望、予算、制作条件、技術的な制約。
さまざまな条件の中で、まだ存在しない答えを考え、形にしていく。
そのとき必要なのは、特定のアプリを操作できることだけではない。
答えが用意されていないとき、自分で答えを作り出せるかどうか。
「スマホで何でも完結する」という言葉への違和感は、突き詰めればここにあるのかもしれない。
用意された選択肢の中で目的を達成することと、選択肢そのものを作り出すこと。
その二つは、似ているようで大きく違う。
ノートとサイコロから始まった話
ここまで少々理屈っぽい話になってしまったが、最後に少しだけ昔話をしたい。
私は小学生の頃、ものを作ることが好きだった。
当時は「某RPG」が大流行していた。
当然、私も夢中になって遊んでいたのだが、あるとき、こんなことを考えた。
「これ、学校で友達と一緒に遊べないだろうか?」
ファミコンを学校に持っていくわけにはいかない。
そもそも、「某RPG」は一人で遊ぶゲームだ。
では、どうすればいいのか。
考えた末に私が用意したのは、ノートとサイコロだった。
方眼紙にフィールドを描き、敵をカードにして、サイコロで戦闘の結果を決める。
当時の私は、TRPGという遊び方が存在することすら知らなかった。
それでも、友達と一緒に遊べるRPGを作ってしまった。
しかも、そこで終わらなかった。
その後、プロ野球のドラフトからペナントレースまで楽しめる野球ゲームや、内政と合戦を組み合わせた戦国シミュレーションまで作ることになる。
今思えば、ずいぶん手間のかかることをしていたものだ。
けれど、あの頃の私は、それを面倒だとは思っていなかった。
作ること自体が楽しかったからだ。
そして、今になって振り返ると、あの遊びの中には、今回考えてきたことにつながる何かがあるように思う。
**なぜ私は、既存のゲームで遊ぶだけではなく、自分でゲームの仕組みまで作ろうとしたのだろうか。**
次回は、ノートとサイコロでゲームを作っていた少年時代の話から、もう少しこの問題を考えてみたい。
(後編へ続く)