「同じ人間なんだから、話せば分かるはず」
「悪いことをしていないのなら、きっと助けてもらえるはず」
かつて私は、そんな言葉を呪いのように信じていました。 信じていたというより、そう信じなければ生きていけなかった、と言った方が正しいかもしれません。
でも、ある日、私はその希望を捨てました。 絶望の底で「諦める」ことを選んだのです。 そうしたら不思議なことに、うるさかった世界が急に静まり返り、私は初めて「楽」になれました。
今日は、私が「諦め(諦観)」という、冷たくて温かい救いを見つけるまでの話をしようと思います。
「助けてくれないんだ」と悟った日
子供の頃、いじめにあっていました。 言い返すことも、やり返すこともできない性格でした。 それどころか、いじめてくる相手に対してさえ「私がやり返したら、この子も同じように傷ついちゃうんじゃないか」なんて考えてしまうような子供でした。
ある時、勇気を振り絞って親に打ち明けました。
「辛い」「助けてほしい」
子供ながらに必死のSOSでした。 けれど、返ってきた言葉は、私が求めていたものではありませんでした。
「あなたは何も悪いことをしていないんだから、堂々としてなさい」
親としては、子供を励ますための正論だったのかもしれません。 でも、その時の私には、それが突き放された言葉のように聞こえました。 「具体的な対策はしない」「あなたの気持ちをただ分かってあげることもしない」。 そう言われた気がして、体からスーッと血の気が引いていくのを感じました。
ああ、助けてくれないんだ。 理不尽な目に遭っても、誰も守ってくれないんだ。
その瞬間、私の中で何かがプツンと切れました。 期待していた温かい手が、幻だったと気づいた時の寒気。 それは恐怖でもあり、同時に「ああ、もう一人でやるしかないんだ」という、奇妙に透き通った覚悟の始まりでもありました。
集団の中の孤独、一人の自由
それからの私は、学校という集団の中にいる時こそ、猛烈な孤独を感じるようになりました。
登校班で並んで歩く時、みんなが楽しそうに話している輪に入れない。 教室のざわめきの中で、自分だけが透明人間になったような気分になる。
「なんでみんな楽しそうなのに、私だけ一人なんだろう」
その対比が、孤独を際立たせました。 逆に、家に帰って一人で遊んでいる時や、一人でバスに乗っている時は、全然寂しくありませんでした。比較する相手がいない「一人」は、ただの「自由」で「休息」だったからです。
私は長い間、「分かってほしい」という渇望を抱えて生きてきました。 心療内科に行ったり、自己啓発の本を読んだり、YouTubeで情報を漁ったり。 「生きづらい。誰かこの苦しさを分かって」と、彷徨い続けました。
でも、ある時ふと気づいたんです。 私が苦しかったのは、過去の出来事そのものではなく、その出来事に「今も」感情をくっつけて再放送しているからだと。 そして、その苦しみを癒やせるのは、親でも医者でもなく、私しかいないのだと。
自分で自分に「ありがとう」を言う
私がやったのは、自分の中の「小さな私(インナーチャイルド)」との対話でした。
イメージの中で、いじめられてうずくまっている小さな自分に会いに行く。 そして、勇気を出して声をかけるんです。 「もう大丈夫だよ」 「あの時は辛かったね。今まで守ってくれてありがとうね」
最初は、これを言うのすら恥ずかしくて、勇気が要りました。 でも、繰り返し伝えているうちに、私の中にいた怯えた子供が、少しずつ顔を上げてくれるような気がしました。
「もう終わったことなんだ」 「今は違う場所なんだ」
そうやって、過去の記憶から感情を引き剥がしていく作業を続けました。 そうしたらある朝、目が覚めた時に、心が「シーン」と静かになっていることに気づいたんです。 死にたいとも思わない。かといって、過剰に生きたいとも思わない。 ただ静かで、フラットな状態。
それは、私がずっと求めていた「平穏」でした。
「同じ人間」という幻想を捨てる
私が楽になれた最大の理由は、「期待」を手放したからです。
昔は「みんな同じ人間なんだから、話せば分かる」と思っていました。 だからこそ、分かってくれない相手に「なんで?」「どうして傷つけるの?」と傷つき、怒り、苦しんでいました。 「同じ人間だもの」という言葉は、裏を返せば「私と同じ価値観を持っていてほしい」「私を大切にしてほしい」という、相手への甘えやコントロール欲求だったのです。
でも、今は違います。 ローレンスさんとの会話で、私はこんな境地に至っていることに気づきました。
「人は分かり合えない。ただ違うだけ」
冷たい言葉に聞こえるでしょうか? でも私にとっては、これが究極の救いでした。
あの人が私を攻撃するのは、あの人が悪いからでも、私が悪いからでもない。 ただ、あの人は「攻撃することでしか自分を保てない生き物」であり、「赤色」の世界に住んでいる人なんだ。 私は「青色」の世界に住んでいる。 色が違う人に「なんで青じゃないんだ!」と怒っても仕方がない。
「ああ、あなたは赤色なんですね」 「あなたはそういう世界を見ているんですね」
そうやって事実(ファクト)だけを淡々と認める。 良いも悪いもなく、ただ「違う」という事実だけを見る。 これを仏教的な用語では「諦観(ていかん)」と呼ぶそうです。「諦める」とは、本来「明らかにただ見る」という意味なのだとか。
絶望は、自立へのスタートライン
「諦め」たら、世界から敵がいなくなりました。 マウントを取ってくる人も、理不尽に怒る人も、ただの「現象」として通り過ぎていきます。
「分かってほしい」と誰かにすがるのをやめた時、私は初めて自分の足で立ちました。 自分で自分の機嫌を取り、自分で自分を認めてあげる。 他人からの賞賛や理解という「ガソリン」をもらわなくても、自分のエンジンで静かに走れるようになりました。
絶望の底で、私は「期待」を捨てました。 そうして手に入れたのは、誰にも侵されない、私だけの静かな世界です。
もし今、人間関係で苦しんでいる人がいたら、一度「期待」を疑ってみてください。 「分かってくれるはず」という思いが、あなたを苦しめているのかもしれません。
分からなくていいんです。違っていいんです。 ただ違う生き物が、そこにいるだけ。 そう思えた時、あなたの世界も少しだけ、静かになるかもしれません。
(つづく)
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