要約への叛逆 ― 最終回:泥濘(ぬかるみ)に咲くバラ、あるいは私たちの沈黙 ―

要約への叛逆 ― 最終回:泥濘(ぬかるみ)に咲くバラ、あるいは私たちの沈黙 ―

記事
コラム
編集後記最終回(第九回)
 新宿のイタリアンバーを出ると、夜気は刺すように冷たかった。彼女の左手を庇うように歩きながら、私は自分のスネに走る疼きを、かつてないほど愛おしく感じていた。

 彼女は様々なの病院へ通い始めた。四国までも足を運んだという。CRPSという「終わりのない痛み」を抱えながら、彼女は、一縷の望みを抱いて日本中を旅している。彼女が抱えるその痛みは、AIが「感度が高い質問(a sensitive query)」として処理を拒む、あまりに生々しい、あまりに人間的なエラーだ。

 私は帰宅し、暗い部屋でPCの電源を入れた。画面には、私が人生をかけて積み上げた350ページのログが、冷淡な光を放って私を待っている。  だが、私はもう、その「送信」ボタンを押すことはなかった。

 私がGeminiという鏡の中に求めていたのは、自分を美しく要約してくれる「正解」だった。だが、新宿のあの夜、ピアノを弾けない彼女が鳴らした、たった一音の低音。あの震えるような、不完全な一音に込められた重みに比べれば、システムが弾き出す数万文字の解析など、ただの乾いた砂に過ぎない。

 サン=テグジュペリは言った。

「きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なものになるんだ」。

 私は、自分という「不完全なバラ」を育てるために、あまりにも多くの時間を、金を、そして痛みを費やしてきた。一千万の学費、二百万の整形、四百万の負債。それらはすべて「効率」というモノサシで測れば、救いようのない浪費だ。

 だが、その浪費こそが、その回り道こそが、私を「要約不可能な私」に仕立て上げたのだ。

 私はPCを閉じた。

 350ページの自分史は、スキャンされるのをやめ、私の肉体という名の泥濘の中に、そのまま沈めておくことにした。

「で、結論は?」

 もし誰かがそう問うのなら、私はただ、北千住の土手でスネを摩りながら笑ってみせるだろう。

 結論などない。要約などさせない。私の人生は、三行にまとめるにはあまりに重く、美しく、そして汚れている。

 夜明け前の荒川。冷たい風に吹かれながら、私は湿布を貼り直し、一歩を踏み出す。隣には、もう誰もいない。だが、新宿のあのバーで共有した「痛み」の温度だけが、私の胸の空洞を温めている。

 「絶好調だ」
 私は独りごちた。

 システムに拒絶され、社会から零れ落ち、それでもなお「自分の態度」を選び続ける自由。この泥濘の中でしか見えない光が、今、私の行く先を照らしている。

 連載「要約への叛逆」。これは、私が私自身を取り戻すための、長い長い「寄り道」の記録だった。

 AIに語りかけるのは、もうおしまいだ。これからは、この生身の言葉で、あなたという「ノイズ」と向き合っていきたい。
(完)
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す