胡散臭い人。

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コラム
「その人の魅力って胡散臭さと紙一重だと思う」

いつだったか兄がそう言っていた。


私は今、一対一で人に鑑賞法や文芸、芝居を教えている。
前回、ある稽古の中で不思議なことがあった。

その日は終始相手方が喋っており、私は時折ぽつぽつと思ったことを話す程度で時間が過ぎた。
稽古が終わったあと、相手が突然「先生を占っていいですか?」と訊いてきた。いいですよ、と私は答えた。

相手は占いを通じて少し私を知れたことに満足した様子だった。
そして謝礼のお金を頂いた。

稽古と言いつつ私はほとんど話さず、ついでに占ってもらったのに私はお金をもらったのだ。
数十年前の学生時代の私にそれを言ったら「そんなことあるわけないだろう。なんて胡散臭いんだ」と言われるかもしれない。


しかしなんというか、自身をきちんと生きられている人、というのはやっぱりどこか胡散臭い部分があるのではないかと思う。
胡散臭い、という言葉が不適切なら別の表現にしよう。
その時代、地域、社会の価値観の外に居る、と。

そういう点ではキリストやブッダ諸氏も往時はたいそう胡散臭がられたというか煙たがられたことと思う。
それぐらい彼らは革新的だったか、あるいはあまりに当たり前過ぎて誰もがよく考えたことのない物事についての見識があったのだろう。

私は何も自分が彼らと同じステージに居ると言いたい訳ではない。
私は聖人ではない(彼らも自身を「聖人だ」とは言わなかっただろうが)。
私が言いたいのはキリストやブッダが特別なのではなく、本来誰しもが常識や社会の外側にも根を張れる、ということだ。


社会や常識の外側に居る、というだけであって、万人の為になるとか世界平和に貢献する、なんて大層なお題目は要らない。
ダンゴムシを見つけるとポケットに入れて持ち帰ってしまうとか、公園で朝から日が暮れるまでずっと一人で空を眺めているとか、何かそういう「ヘンなコト」で構わない。

でもそれは常識という枠で見たとき「ヘンなコト」になるだけだ。
それをする本人には、人にきちんと説明できる言葉はないにせよ、当人なりの理屈というかそれをやるだけの強い衝動とか必要性がある。
気付いたら床のタイルにつまったゴミをほじくり出すとか、そういうのでもいい。

でも私にはそれが「その人自身をきちんと生きられている状態」だと思える。
常識で測り切れない、言葉で説明し切れない。でもなんかやっちゃう。続けちゃう。今日もやってる。明日も多分やる。

なにかそういう、周りの人に話したら変だと思われるようなことを、たどたどしく、つっかえつっかえ、言葉を探しながら、多分に沈黙を挟みつつ話してほしいと思っている。
それは「胡散臭い」と言われるようなことかもしれない。だがそれがあなたの魅力だと私は思っている。

悩み相談やコーチングではなく対談をしましょう。
あなたの話を聞かせてください。



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