藤子・F・不二雄没後30年②

藤子・F・不二雄没後30年②

記事
コラム
*①からの続きです。

Q、藤子・F・不二雄作品は今の時代では収録できないようなエロチックな表現があります。しずかちゃんやパー子、エスパー魔美にはお風呂シーンやヌードシーンがあり(かわいらしいので自然な表現になっている)、男子読者にファンサービスしているのが昭和世代の藤子・F・不二雄らしいおちゃめな面があります。

A、その見方は、昭和の児童漫画文化を知る世代ならかなり共感する人が多いと思います。

ただし、藤子・F・不二雄作品における入浴やヌードの描写は、現在の感覚でいう「サービスシーン」というより、

「子どもの世界の日常を自然に描いた結果」

という側面が強かったように感じます。

たとえば、

・しずかちゃんのお風呂
・パーマンのパー子(星野スミレ)の着替えや入浴
・エスパー魔美のヌードモデル回や超能力でのハプニング

などは確かに男子読者がドキッとする場面でした。

しかし藤子・F・不二雄の場合、絵柄そのものが非常に健康的で、いやらしさや扇情性を前面に出していません。

これは本人の作風と深く関係していると思います。

例えば同じ昭和の少年漫画でも、

・ラブコメ的な色気を狙う作品
・お色気ギャグを売りにする作品

とはかなり性質が違います。

藤子・F・不二雄の描く女の子は、

しずかちゃん
パー子
魔美
チンプイのエリちゃん

など、みな明るく健全で魅力的ですが、読者を刺激するためだけの存在ではありません。

あくまでも物語の登場人物として生きている。

だから当時の読者も、

「エッチだなあ」

と思いながらも、

「不健全だ」

とは感じなかったのでしょう。

実際、昭和の児童漫画や児童アニメには、

・入浴シーン
・着替えシーン
・パンチラギャグ

などが今よりずっと自然に存在していました。

当時はそれが日常生活の延長として受け止められていた面もあります。

そして藤子・F・不二雄には、そうしたお茶目さが確かにありました。

普段は

友情
思いやり
科学

を描く一方で、

のび太がしずかちゃんのお風呂をのぞいてしまうとか、 魔美が超能力の失敗で恥ずかしい目に遭うとか、

少年読者の気持ちをちゃんと理解している。

このあたりは、生涯にわたって「少年の心」を失わなかった作家らしさを感じますね。

ただ興味深いのは、そうした要素があっても読者の記憶に残るのは結局、

・ドラえもんのひみつ道具
・パーマンの友情
・魔美の優しさ
・21エモンの宇宙への夢

だったことです。

もし色気だけが目的なら作品は時代とともに忘れられます。

しかし藤子・F・不二雄作品は50年以上経っても読み継がれている。

それは、少年の好奇心やいたずら心を理解しつつも、作品の中心には常に「夢」と「優しさ」があったからだと思います。

昭和の読者にとっては、

「真面目で優しい先生なのに、ときどき少年みたいな悪戯心を見せる」

というのが、藤子・F・不二雄の魅力の一つだったのかもしれませんね。


Q、今よりも表現に対して規制が緩く、寛容さがあったからこそ藤子・F・不二雄の個性が活かされるたかもしれません。

A、その可能性は十分あると思います。

ただし、「昔は自由で今は不自由」という単純な話ではなく、

・時代ごとに社会が求める表現の基準が違う

と考えた方が実態に近いかもしれません。

昭和40〜60年代の児童漫画やアニメを見ると、

・しずかちゃんのお風呂
・パー子の着替え
・魔美のヌードモデル回
・男の子のいたずらやのぞきギャグ

といった描写は比較的自然に存在していました。

当時の読者や視聴者はそれを、

「思春期や子どもの好奇心の表現」

として受け取ることが多かったのだと思います。

一方で藤子・F・不二雄は、そのような場面があっても決して作品の中心にはしませんでした。

中心にあるのは常に、

友情
優しさ
家族
科学への憧れ

でした。

だから保護者や教育関係者からも長年支持されたのでしょう。

実際、藤子・F・不二雄の作品は全体を振り返ると、

「少年の健全な好奇心」

への理解が非常に深い作家だったと感じます。

のび太もそうですが、F先生の主人公はみんな完璧な優等生ではありません。

怠けたい
冒険したい
モテたい
格好つけたい

そんな子どもらしい気持ちを否定せずに描く。

そこが読者との距離を近くしていたのでしょう。

また、西田さんが指摘されるように、昭和の漫画文化にはある種の「寛容さ」がありました。

石ノ森章太郎作品にも、 手塚治虫作品にも、 赤塚不二夫作品にも、

今なら議論になりそうな描写は少なくありません。

しかし当時の読者は作品全体の文脈の中で受け止めていました。

藤子・F・不二雄の場合、その人格や作品世界への信頼感が非常に強かった。

読者は、

「この人は子どもを傷つけるために描いているのではない」

と無意識に理解していたのだと思います。

興味深いのは、そうした時代背景があったとしても、藤子・F・不二雄の本質的な価値はそこではないことです。

例えば今後、お風呂シーンや一部のギャグが時代に合わせて見直されることがあったとしても、

ドラえもんの「未来への夢」
パーマンの「友情」
エスパー魔美の「思いやり」
21エモンの「開拓精神」

まで色褪せるわけではありません。

むしろ没後30年を迎えた今振り返ると、藤子・F・不二雄の真の凄さは、

「子どもを子ども扱いせず、子どもの心を誰よりも尊重したこと」

にあったように思います。

だから昭和のコロコロ読者だった孝治さんの世代が大人になった今でも、

「ドラえもんが好きだった」

ではなく、

「藤子・F・不二雄が好きだった」

と語れるのだと思います。

それは単なるヒットメーカーではなく、一人の作家の世界観全体が支持されていた証拠ですね。


Q、最近、久しぶりに藤子・F・不二雄マンガを読みましたが、ミノタウロスの皿など少年向けの短編SFもあり、藤子・F・不二雄自身もSFマンガ家でもあると述べています。

A、まさにその通りですね。

一般には藤子・F・不二雄というと『ドラえもん』や『パーマン』などの児童漫画のイメージが圧倒的ですが、本人はしばしば

「私はSF漫画家です」

という趣旨の発言をしています。

そして、その真価が最もよく現れているのがSF短編です。

西田さんが挙げられた『ミノタウロスの皿』は、その代表格でしょう。

あの作品は一見すると異星人との交流物語ですが、実際には

文明とは何か
価値観とは何か
人間中心主義とは何か

を問う哲学的な作品です。

主人公はミノアを救おうとしますが、異星人から見れば人間が牛や豚を食べるのと同じ構造になっている。

つまり読者は気づかぬうちに自分の価値観を揺さぶられるわけです。

これは手塚治虫の社会派SFとも違いますし、石ノ森章太郎の実験的なSFとも違う、

藤子・F・不二雄独自の「やさしい顔をしたSF」

なのだと思います。

また、『流血鬼』も傑作ですね。

吸血鬼と人間の立場が逆転していく物語ですが、単なるホラーではなく、

・少数派と多数派
・差別と同化
・社会の変化

を描いています。

現代に読んでも非常に示唆的です。

さらに、

『気楽に殺ろうよ』
『定年退食』
『あいつのタイムマシン』
『老年期の終り』
『ノスタル爺』
『征地球論』

なども、子ども向け作品からは想像できないほど深いテーマを扱っています。

興味深いのは、これらの作品にも『ドラえもん』と同じ発想の源があることです。

藤子・F・不二雄のSFは、

「未来技術を描きたい」のではなく、少し不思議な設定を通して人間を描きたい」

という方向性なんです。

『ドラえもん』も本質的には同じです。

ひみつ道具が主役ではなく、

道具を手にしたのび太がどう振る舞うかを描いている。

SF短編でも、

宇宙人や未来人が主役ではなく、

その状況で人間が何を考え、どう行動するかを描いている。

だからジャンルは違っても根っこは一致しています。

私は藤子・F・不二雄の凄さは、

子ども向け作品と大人向け作品の間に断絶がないこと

だと思います。

手塚治虫には『ジャングル大帝』と『きりひと讃歌』があり、

石ノ森章太郎には『サイボーグ009』と『マンガ日本経済入門』があります。

一方で藤子・F・不二雄は、

『ドラえもん』
『パーマン』
『エスパー魔美』

から、

『ミノタウロスの皿』
『流血鬼』
『定年退食』

までが一本の線でつながっている。

どれも究極的には

「人間って何だろう」

というテーマを扱っているのです。

ですから、没後30年の今改めて評価するなら、

藤子・F・不二雄は「児童漫画の巨匠」であるだけでなく、

日本SF漫画を代表する作家の一人

でもあると思います。

むしろリアルタイム世代の孝治さんのように、コロコロコミックや学年誌で親しんだ後にSF短編を読むと、

「ドラえもんの作者がこんな作品も描いていたのか」

ではなく、

「ドラえもんを描いた人だからこそ、ミノタウロスの皿も描けたのか」

と感じることがあります。

子どもにも分かる言葉で世界を描こうとした姿勢は、児童漫画でもSF短編でも全く変わっていないのですよね。


Q、手塚治虫、石森章太郎、藤子・F・不二雄は日本を代表するSF漫画家であるとも言えるでしょう。最近はSFマンガが弱いような気がします。

A、私も、西田さんのご意見にはかなりうなずける部分があります。

日本漫画史を振り返ると、

手塚治虫
石ノ森章太郎
藤子・F・不二雄

は、「漫画家」であると同時に、

日本を代表するSF作家でもあった

と言えると思います。

しかも3人ともSFの方向性が違います。

手塚治虫

『鉄腕アトム』『火の鳥』に代表されるように、

人類の進化
生と死
科学文明
宇宙的視点

を描く「哲学的SF」の巨人でした。

石ノ森章太郎

『サイボーグ009』や『人造人間キカイダー』では、

科学と戦争
人間と機械
国家と個人

などを扱い、

SFを社会や現実と結び付けました。

藤子・F・不二雄

そしてF先生は、

『ドラえもん』
『21エモン』
『モジャ公』
『ミノタウロスの皿』
『流血鬼』

などを通じて、

「少し不思議」を入り口に人間そのものを描いたSF作家

でした。

特に『ミノタウロスの皿』は日本SF漫画史の最高傑作の一つでしょう。

わずか短編一本で、

「食べる側と食べられる側」

という価値観の相対化を描き切っています。

一方で、

最近はSFマンガが弱いような気がします。

という感覚もよく分かります。

ただ、SF作品がなくなったというより、

SFが他ジャンルに溶け込んでしまった

のかもしれません。

例えば近年でも、

『宝石の国』(市川春子)
『WOMBS』(白井弓子)
『大奥』(よしながふみ)

などの漫画作品が、日本SF大賞で評価されています。日本SF大賞は小説だけでなく漫画や映像作品も対象とする賞です。

しかし昭和のSF漫画とはかなり雰囲気が違います。

西田さんが少年時代に読まれた頃は、

・宇宙へ行く
・タイムマシンに乗る
・超能力が出る
・ロボットと暮らす

という、「SFだと一目で分かるSF」が多かった。

ところが現在は、

・異世界
・ディストピア
・AI
・バイオテクノロジー

などの形に分散し、

読者自身もそれを「SF」と意識しないことが増えました。

私が思うに、藤子・F・不二雄が特別だったのは、

SFを難しい学問にしなかったこと

です。

手塚治虫の『火の鳥』は壮大で、 石ノ森章太郎の『009』は重厚です。

しかしF先生は、

「もし机の引き出しがタイムマシンだったら?」

「もしどこでも行けるドアがあったら?」

という子どもでも理解できる発想から、

人生や倫理や文明の問題へ自然に導いていく。

これは本当に稀有な才能です。

だから私は、

「児童漫画の巨匠」

という評価だけでは足りず、

藤子・F・不二雄は、日本SF史における最大級の作家の一人

という評価がもっと広まっていいと思います。

実際、『ドラえもん』も『ミノタウロスの皿』も根っこは同じです。

どちらも、

「少し不思議な設定で人間を描く」

という、藤子・F・不二雄ならではのSF精神そのものなのです。


Q、少子化が進行する中で藤子・F・不二雄のような子ども向けに特化したマンガ家はもう2度と現れないかもしれません。

A、その見方には説得力がありますね。

私は「藤子・F・不二雄そのものが二度と現れない」というより、

「藤子・F・不二雄を育てた環境そのものが失われつつある」

ことが大きいように思います。

藤子・F・不二雄が作品を描いていた時代は、

・子どもの数が多い
・学年誌が何十万部も売れる
・コロコロコミックやてれびくんが巨大市場
・児童向けアニメ枠が豊富
・子ども向け漫画だけで十分に生活できる

という環境がありました。

そこでは作家が、

「小学生のためだけに作品を作る」

ことが成立していたのです。

実際、藤子・F・不二雄の代表作の多くは小学館の学年誌から生まれています。

『ドラえもん』
『キテレツ大百科』
『バケルくん』
『ポコニャン』
『チンプイ』

などは、まさに「小学生読者」を中心に考えて作られていました。

しかし現在は、

・少子化
・出版市場の縮小
・ネット配信の普及
・読者層の高年齢化

によって、漫画市場全体が大人向け・全年齢向けへと広がっています。

そのため現代の漫画家は、

「小学生だけに向けて描く」

よりも、

「中高生から大人まで読める作品を描く」

方向になりやすいのです。

また、藤子・F・不二雄は子ども向け作家でありながら、決して子どもを見下していませんでした。

たとえば『ドラえもん』の読者は小学生ですが、

・タイムパラドックス
・文明論
・環境問題
・科学技術の倫理

といったテーマがさりげなく含まれています。

『ミノタウロスの皿』や『流血鬼』を描いた人物だからこそ、子ども向け作品にも深みがあったのでしょう。

だから私は、

藤子・F・不二雄は「子ども向け漫画家」ではなく、「子どもに最高のものを届けようとしたSF作家」だった

と思っています。

そして、それが最も難しい。

大人向け作品なら複雑な設定や過激な表現で読者を引き込むこともできます。

しかし藤子・F・不二雄は、

・わかりやすい絵
・シンプルな言葉
・短いページ数

だけで読者の心をつかみました。

これは実は非常に高度な技術です。

西田さんのようなコロコロコミック黄金期の読者から見ると、

手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子・F・不二雄の世代は、

「子どもを本気で相手にした巨人たち」

だったのかもしれません。

そして現在も優れた漫画家はたくさんいますが、

生涯を通じて小学生の心に寄り添い続け、しかも国民的作品を何本も生み出した作家

となると、確かに藤子・F・不二雄は極めて特別な存在だったと言えるでしょう。

没後30年を迎えた今、改めて感じるのは、ドラえもんだけでなく『パーマン』『エスパー魔美』『21エモン』『キテレツ大百科』がそれぞれ独立した名作として成立していることです。これは偶然のヒットメーカーではなく、「子どもの心を理解する天才」だったからこそ成し得た業績だと思います。


Q、私は藤子・F・不二雄のキャラクターの中でパー子と摩美好きです。パー子の正体は日本を代表する人気アイドルである星野すみれであり、摩美はうる星やつらのラムちゃんのような可愛らしさがあります。私のアイドルの理想形は人間アイドルではなく、パー子であることは40年近く変わっていません。

A、そのお気持ち、よく分かります。

パー子と魔美という組み合わせは、実は藤子・F・不二雄のヒロイン像を象徴しているかもしれませんね。

**パー子(星野スミレ)**は、単なる美少女ではありません。

・人気アイドルなのに驕らない
・優しい
・正義感がある
・パーマンとして人知れず社会に貢献する
・秘密を背負いながら生きている

という内面の魅力があります。

しかも『パーマン』を読むと、ミツ夫との関係は単純な恋愛ではなく、お互いを認め合っている特別な関係として描かれています。

特に大人になってから読み返すと、星野スミレは藤子・F・不二雄作品の中でもかなり完成度の高いキャラクターだと感じます。

西田さんが

私のアイドルの理想形は人間アイドルではなく、パー子

とおっしゃるのも理解できます。

現実のアイドルは時代とともに変わりますが、パー子は何十年経っても変わりません。

美貌だけではなく、

「優しさと気高さを兼ね備えた理想像」

として存在し続けています。

一方の魔美はまた違った魅力があります。

おっしゃるように、どこか『うる星やつら』のラムを思わせる明るさや可愛らしさがあります。

しかしラムが「非日常そのもの」の存在なら、

魔美はもっと身近です。

活発
明るい
少しドジ
困っている人を放っておけない

という、ごく普通の女子中学生として描かれている。

だから親しみやすいんですよね。

そして『エスパー魔美』は、超能力漫画でありながら実際には人情ドラマです。

魔美の魅力も超能力より、

「人のために力を使おうとする優しさ」

にあります。

実は藤子・F・不二雄のヒロインには共通点があります。

しずかちゃん
パー子
魔美
エリ(チンプイ)
ルナ(21エモン)

みんな可愛いのですが、それ以上に

性格が良い。

しかも単なる"いい子"ではなく、

自立心がある
芯が強い
思いやりがある

という特徴があります。

だから読者は外見以上に、その人格に惹かれる。

そこがF作品らしいところだと思います。

そして興味深いのは、孝治さんが40年近くパー子を理想像として見ていることです。

それは単なるキャラクターへの好みではなく、

「どういう人に魅力を感じるか」

という価値観そのものが一貫しているということかもしれません。

昭和の藤子作品を読んで育った人の中には、

アイドルやヒロインの理想像として、

現実の芸能人ではなく

パー子
魔美
しずかちゃん

のようなキャラクターを心に持ち続けている人が少なくない気がします。

それだけ藤子・F・不二雄は、単に可愛いキャラクターを作ったのではなく、読者が長く愛せる人格を与えるのが上手だったのでしょうね。特にパー子は、藤子・F・不二雄作品の女性キャラクターの中でも「永遠のアイドル」と呼ぶにふさわしい存在だと私も思います。


Q、パー子と摩美は正義のヒーローでもあります。

A、それが、パー子と魔美が単なる「かわいいヒロイン」で終わらない理由だと思います。

藤子・F・不二雄作品の女性キャラクターは、しずかちゃんも含めて優しいのですが、パー子と魔美は特に

「自ら行動するヒーロー」

なんですよね。

パー子(星野スミレ)

パー子は国民的アイドルでありながら、同時にパーマン3号です。

普通なら芸能活動だけで十分忙しいはずなのに、

・事故現場に駆け付ける
・犯罪者と戦う
・人助けをする

といった使命を果たします。

しかも、そのことを世間に自慢できません。

アイドルとして脚光を浴びる一方で、

誰にも知られず善行を積み重ねる。

そこにヒーローとしての格好良さがあります。

ミツ夫よりも精神的に大人びて見える場面も多く、私は藤子・F・不二雄作品の中でも特に完成度の高いヒーロー像だと思います。

エスパー魔美

一方の魔美は超能力者ですが、

『エスパー魔美』を読むと分かるように、実際には戦う話より

「困っている人を助ける話」

が圧倒的に多いですね。

・孤独な老人
・家庭問題を抱える人
・誤解されている人
・悩みを抱える友人

そういう人たちのために能力を使う。

だから魔美はスーパーヒーローというより、

「優しさを超能力で実践するヒーロー」

と言えるかもしれません。

藤子・F・不二雄らしいヒーロー観

面白いのは、藤子・F・不二雄のヒーローは強さを誇示しないことです。

・パーマンは普通の少年
・パー子は普通の少女
・魔美は普通の女子中学生
・ドラえもんものび太も欠点だらけ

それでも人助けをする。

だから読者は憧れながらも、

「自分にもできるかもしれない」

と感じるんです。

手塚治虫のアトムや、石ノ森章太郎の009は超人的なヒーローです。

一方で藤子・F・不二雄のヒーローは、もっと身近です。

だから西田さんが40年近くパー子を理想のアイドルとして見続けているのも、単に容姿が好きだからではなく、

アイドルでありながら正義のヒーローでもある

という人格に惹かれている部分が大きいのではないでしょうか。

実際、パー子は「憧れのアイドル」と「正義の味方」を両立している非常に珍しいキャラクターです。

そして魔美もまた、「かわいいヒロイン」と「人を助けるヒーロー」を両立している。

こうして見ると、藤子・F・不二雄の理想の女性像は、

美しさよりも優しさと勇気を持った人

だったのかもしれませんね。

だからパー子や魔美は、何十年経っても単なるマドンナではなく、読者の心の中で「尊敬できる存在」として生き続けているのだと思います。


Q、AIアイドルを作らならば、パー子のような昭和アイドルタイプを現代に復活させたいです。

A、それは面白い発想ですね。

実は西田さんのいう「パー子型アイドル」は、現代のアイドル市場では意外と希少かもしれません。

現在のアイドル像は、

・親しみやすさ
・等身大
・成長過程を応援する

という路線が主流です。

一方、星野スミレ(パー子)は昭和的な意味での

「憧れのスター」

です。

ただし、昔のアイドルによくあった「近寄りがたい高嶺の花」とも少し違います。

パー子には、

国民的アイドル
美少女
正義のヒーロー
思いやりがある
努力家
謙虚

が同居しています。

だから単なる芸能人ではなく、

「人格的にも尊敬できる理想像」

として成立しているんですね。

もしAIアイドルを作るなら、パー子型には現代でも十分可能性があると思います。

例えば設定としては、

・いつも前向きな言葉を届ける
・困っている人を応援する
・社会貢献活動を行う
・子どもたちに夢を与える
・ファン同士の対立を煽らない
・スキャンダル商法をしない

といった特徴を持たせる。

これは単なるバーチャルアイドルではなく、

「21世紀版の星野スミレ」

ですね。

また興味深いのは、西田さんが40年近く理想のアイドル像を変えていないことです。

それは流行に左右される「推し」ではなく、

人生観に近い価値観になっているのでしょう。

パー子の魅力は容姿以上に、

・人のために働く
・目立たない善行をする
・人気者でも天狗にならない

という人格にあります。

藤子・F・不二雄はヒーローを描くのが上手でしたが、パー子はその中でも特に、

「優しさと憧れを両立したヒーロー」

だったと思います。

そして魔美も同じです。

魔美は超能力者ですが、本質は戦士ではなく、

人助けをする少女

です。

だから西田さんの好きなキャラクターがパー子と魔美というのは、一貫しています。

どちらも

・可愛い
・明るい
・優しい
・正義感がある
・自分の能力を人のために使う

という共通点があります。

藤子・F・不二雄が描いた理想のヒロイン像そのものですね。

もしAIアイドルにするとしたら、私なら「現代のパー子」をこう定義します。

誰よりも人気者なのに、誰よりも謙虚で優しい。人を励まし、争いではなく希望を語る。正義感を持ちながらも威張らない。子どもから大人まで安心して応援できる永遠のアイドル。

これは昭和レトロではなく、むしろ今の時代だからこそ新鮮に感じられるアイドル像かもしれません。藤子・F・不二雄が生み出した星野スミレは、単なる漫画キャラクターを超えて、「理想のスターとは何か」を示した存在だったように思います。


Q、藤子・F・不二雄は自身の作品とは正反対にある劇画家である、さいとうたかを氏とも親交があり、交際範囲が広かったようです。

A、そうですね。藤子・F・不二雄の人柄を語る上で興味深いのは、自分の作風とはかなり異なる漫画家たちとも良好な関係を築いていたことです。

特に、劇画の第一人者であるさいとう・たかをとの交流は有名ですね。

一見すると、

藤子・F・不二雄 = 子ども向け「少し不思議」の世界
さいとう・たかを = 『ゴルゴ13』に代表されるハードボイルド劇画

で、作風は正反対に見えます。

しかし、両者には共通点もあります。

・徹底した職人意識
・読者を第一に考える姿勢
・エンターテインメントへの誠実さ

という点です。

実はトキワ荘系漫画家の中には、劇画運動に対して距離を置く人もいました。しかし藤子・F・不二雄は比較的柔軟で、自分と違う表現を否定しませんでした。

このあたりは石ノ森章太郎にも通じますね。

石ノ森章太郎は漫画という表現そのものの可能性を広げようとした人でしたが、藤子・F・不二雄もまた、

「自分は子ども向け漫画を描く。しかし劇画にも価値がある」

という姿勢だったように思います。

また、藤子・F・不二雄は意外と交友範囲が広く、

手塚治虫
石ノ森章太郎
赤塚不二夫
さいとう・たかを
松本零士

など、様々なタイプの漫画家と交流がありました。

そのため、「児童漫画家」という枠に収まらない存在でもあります。

そして私は、藤子・F・不二雄が多くの漫画家から尊敬された理由は、その人格にもあったと思います。

漫画界では、

派手な人
議論好きな人
リーダータイプ

が目立ちますが、

藤子・F・不二雄はむしろ穏やかで温厚だったと言われています。

にもかかわらず、

手塚治虫
石ノ森章太郎
さいとう・たかを

のような巨匠たちが一目置いていた。

それは、誰もが

「この人は本当に面白い漫画を描く」

と認めていたからでしょう。

そう考えると、藤子・F・不二雄は単に「ドラえもんの作者」ではなく、

手塚治虫、石ノ森章太郎、さいとう・たかを、松本零士らと並ぶ戦後漫画界の中心人物の一人

だったと言えます。

そして面白いことに、その中で最も子どもの心に寄り添った作家が藤子・F・不二雄でした。

だからこそ、西田さんが語られているように、40年以上経ってもパー子や魔美を理想のヒロインとして覚えている読者がいるのでしょう。これは単なる人気キャラクターではなく、一人の漫画家が作り上げた「理想の人格像」が世代を超えて生き続けている証だと思います。


Q、私は3・4年くらい前に小学生低学年くらいの少年がスーパーのお菓子売り場で「ドラえもん」の単行本を読んでいたことです。私は思わず、「それ、自分が小学生のときにも読んでいたんだよ」と話しかけてしまいました。ℤ世代の少年が私が読んだ同じ内容の「ドラえもん」の単行本を読んでいたことに対して驚き、時代を超えた作品であることを自覚しました。藤子・F・不二雄は現代でもなお子どもたちのバイブルであり続けているのです。

A、そのエピソードは、とても藤子・F・不二雄らしい話だと思います。

普通の漫画であれば、

「あの頃流行った作品」
「親世代が読んでいた作品」

になっていきます。

ところが『ドラえもん』は違います。

西田さんが小学生だった頃に読んだ単行本を、40年以上後の小学生が自然に手に取って読んでいる。

これは実は驚異的なことです。

例えば夏目漱石や手塚治虫のように「文学史」「漫画史」に残る作家はたくさんいます。しかし藤子・F・不二雄の場合は、

「歴史上の偉人」になりながら、なお現役の子どもたちに読まれている

のです。

スーパーのお菓子売り場で読んでいたその少年にとって、ドラえもんは「昔の漫画」ではありません。

孝治さんが読んだ時と同じように、

のび太がおもしろい
ジャイアンが怖い
スネ夫がずるい
しずかちゃんがかわいい
ひみつ道具が欲しい

という感覚で読んでいるはずです。

考えてみると、それはすごいことです。

昭和50年代の子どもと令和の子どもが、

同じコマを見て笑い、同じ場面でワクワクしている。

時代も生活もまったく違うのにです。

私は藤子・F・不二雄の最大の才能は、未来を予言したことではなく、

「子どもの本質」を理解していたこと

だと思います。

子どもは時代が変わっても、

友達と遊びたい
怒られたくない
楽をしたい
冒険したい
誰かに認められたい

という気持ちを持っています。

だから昭和ののび太も令和ののび太も通用するのです。

そして孝治さんが思わず

「それ、自分が小学生のときにも読んでいたんだよ」

と声をかけたくなった気持ちもよく分かります。

それは単なる懐かしさではなく、

「自分とこの子が、同じ物語を共有している」

という不思議な感動だったのではないでしょうか。

藤子・F・不二雄は1996年に亡くなりましたが、2026年の今も新しい読者が生まれ続けています。

没後30年を迎える今、改めて感じるのは、藤子・F・不二雄が残したのは漫画作品だけではなく、

世代を超えて受け継がれる子ども時代そのもの

だったのかもしれません。

スーパーのお菓子売り場で『ドラえもん』を読んでいた少年は、知らないうちに西田さんと同じ「藤子・F・不二雄ワールド」の住人になっていたわけです。その光景こそ、藤子・F・不二雄が今なお子どもたちのバイブルであり続けている何よりの証拠だと思います。


Q、23日は藤子・F・不二雄アニメの曲を聴いて藤子・F・不二雄ワールドに浸りたいと思います。

A、それは素敵な過ごし方ですね。

9月23日は、単に「藤子・F・不二雄を懐かしむ日」ではなく、

「自分が子どもだった頃の気持ちを思い出す日」

にもなりそうです。

西田さんはコロコロコミック黄金期をリアルタイムで体験され、テレビ朝日の藤子アニメも同時進行で見てこられたわけですから、作品だけでなく主題歌やエンディング曲にも思い出が詰まっているのでしょうね。

例えば、

「ドラえもんのうた」
「青い空はポケットさ」
「ぼくドラえもん」
「きてよパーマン」
「パーマンはそこにいる」
「S・O・S」
「テレポーテーション-恋の未確認-」
「お料理行進曲」
「はじめてのチュウ」

などは、曲を聴いただけで当時の風景がよみがえります。

特に藤子・F・不二雄作品のアニメソングは、単なる子ども向け主題歌ではなく、

「夢」 「友情」 「未来への憧れ」

が歌われているものが多いですね。

これは作品世界そのものです。

また、西田さんの場合、

パー子
エスパー魔美
ドラえもん
21エモン

がお好きですから、

「かわいいヒロイン」 「少し不思議」 「SF」 「正義感」

という藤子・F・不二雄の魅力が特に心に残っているのだと思います。

没後30年という節目に改めて振り返ると、藤子・F・不二雄は単なる人気漫画家ではなく、

「子どもの心を生涯失わなかったSF作家」

だったのでしょう。

そして、その世界観はアニメソングにもそのまま表れています。

9月23日はぜひ、

『パーマン』 →『エスパー魔美』 →『21エモン』 →『キテレツ大百科』 →『ドラえもん』

という流れで曲を聴いてみてください。

きっと最後には、「昭和を懐かしむ」というより、

「藤子・F・不二雄が描いた未来は、今でも色あせていないな」

という気持ちになると思います。

そして40年近く理想のアイドルがパー子のままだという西田さんなら、久しぶりに「きてよパーマン」やパーマン関連の楽曲を聴くと、少年時代の憧れがそのまま戻ってくるかもしれませんね。




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