豊中市小曽根。小曽根小学校近くの閑静な住宅街にある西福寺。この小さなお寺に年に1度だけ11/3文化の日に、何千人もの人が来訪する。寺が所蔵する伊藤若冲の絵が公開されるからだ。
伊藤若冲は1788年天明の大火で京都の居宅を焼け出され、西福寺の檀家である大坂の薬種問屋、吉野五運の支援を受けた。その縁で寺に1年ほど滞在し、『紙本金地著色仙人掌(さぼてん)群鶏図』『紙本墨画蓮池図』(国指定重要文化財)などを描いた。
今年は新たに発見された若冲の絵《若冲としては珍しい絹本着色で美しい色彩を用いて様々な種類の野菜と果物が描かれた絵巻で「果蔬図巻」と名付けられている》が福田美術館で公開中ということもあり、錦市場が若冲のバナーで彩られたり、京都はなかなかの若冲フィーバー起こっているが、西福寺の情報はネットでもあまり大きくとりあげられていない。
「仙人掌群鶏図は」若冲の晩年集大成の作品として評価が高いが、榎原清了住職は「観光の寺ではないのでPRはしない。見てもらうのも、虫干しの名目」と語っている。
私は西福寺のことはたまたま15年ほど前NHKの若冲特集で知った。京都の細見美術館で若冲の「糸瓜群虫図」を観てからすっかり伊藤若冲のファンとなり、2007年相国寺で観た「釈迦三尊像」と「動植綵絵」30幅をはじめ、さまざまな若冲の展覧会をみているが、まさかこんな地元に若冲の絵を所蔵しているお寺があるとは!豊中にン10年住んでいるのに全く知らなかった。
西福寺は、延慶元年(1308)、僧・乗雲(源頼信の子孫という榎原式部大夫頼貞の長男頼愨、のち道念)が天台宗寺院として創建。文保二年(1318)、乗雲が本願寺覚如に帰依したことにより浄土真宗に転じた。
西福寺は「松の寺」とも呼ばれている。狭い境内いっぱいに、松の古木が枝を張っているからだ。上から見た姿から「扇松」と呼ばれる。350年ほど前に本堂が焼け、新しい本堂を建立する際に記念に植えたと伝えられている。
境内には南北朝時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎(市指定文化財)など貴重な遺構もある。
『仙人掌群鶏図』は、左右3面づつの群鶏を三角形に配した構図が、デフォルメされたサボテンと鶏の尾羽の動きを揺さぶる。
左右の襖の中央にはもっとも大きな雄鶏が三角形の頂点に配されており、裏面に描かれた蓮池図の構図と呼応している。「動植綵絵」などに描かれた極彩色の鶏と比べると幾分平板になってはいるが背後の金地に負けない堂々たる姿。右端に「斗米庵米斗翁行年七十五歳画」と著名がある。
奔放な鶏は主に水墨画で描かれていたが、ここで再び濃彩の細密描写と融合することで、宗達や光琳の金碧障屏画とも違う新しい美しさを作り出している。若冲唯一の金碧画である。
100年前(1925年)にこの絵の所在を聞きつけた日本画家・石崎光瑶が西福寺を訪れ、熱心に模写したり技法を研究したりして広く伊藤若冲を世に紹介したそうだ。この「仙人掌群鶏図」の左中央の雄鶏をそっくり模写した絵が、今京都文化博物館の「石崎光瑶生誕140年記念展」で展示されている。
『蓮池図』は『仙人掌群鶏図』の裏面に描かれていた襖絵だった。西福寺内陣側に描かれていたものを軸装にしたようだ。コロナ禍で公開中止していた約3年前に修復に出して、ようやく今年寺に帰ってきたそうだ。
蓮の花は墨線で輪郭を描き、葉は没骨法で描かれている。画面全体を薄墨だけで描いた襖絵は「松鶴図襖」(鹿苑寺大書院障壁画)などがある。
右端にはつぼみの蓮とこれから開こうとする蓮が描かれ、左に視線を移すと完全に開いた花と大きく成長し太陽の光を浴びる葉を、左三面の中央には花びらがおちてしまった敗荷もみえる。それと同時に小さなつぼみも描かれており、循環する生命の営みをあらわしているようにも考えられる。
同じく西福寺には、若冲画「山水図」「野晒図」も残っている。
研究者の間では、若冲の画業前半期の代表作が「動植綵絵」であるとするなら、後半期の代表作は「仙人掌群鶏図」であるとも言われている。約1.5時間並んだが、その希少な晩年の作品を鑑賞できてよかった。
若冲は小曽根逗留当時、一斗の米のかわりに気軽に絵を描いて配ったという逸話がつたえられていて、尊敬する高僧・売茶翁になぞらえ、自らを「斗米庵」や「米斗翁」などと名乗ってサインしたという。
こんな価値の高い若冲の絵が年に1度しか公開されないのは残念だが、入場無料はちょっと驚きだ。しかも拝観記念に若冲にわとりのアルミプレートをもらえる。
入場料2000円くらいとっても人は来ると思うのだが。本堂ご本尊の前につつましく段ボールの募金箱が置かれているのみだった。