人と比べてしまう性について

人と比べてしまう性について

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コラム
今日は「評論家、という感情」について話そうと思います
切っても放せない人間の性について

「評論家」は生存競争?
嫉妬や切望って何を見て欲しくなるのでしょうか、他の人の称賛?幸せそうな姿?何かを失うとき?なんにせよ基準が必要ですよね

ではその基準を設けるのは誰かって話です、答えは明白ですが自分です
他でもない自分の中で起きるエネルギーなんですから

私は「評論家」を普遍的なものと捉えます
自分の食べ物について何も考えず食べることはできないです、美味しい不味いここの味が好き逆に嫌い
評価を下した上でその後に他の人と比べるとあの人の方が美味しいもの食べてる、私ももっと美味しいものが食べたい
それが先程話した「嫉妬」「切望」

「評論家」はその「嫉妬」や「切望」を得るための考え方、だと思います

妬みなどの必要性
人間は生き残る為に頭を使って来ました、仲間を作って農作物を育て、どこで何があったかを言葉にし詳しく伝える

その間に他者と比べ、自分を奮い立たせる為のサイクルも作られたはずです
仲間に満足して呆然と生きていたらそのまま狼に食われますから

今はそれほど殺伐としていません、でも昔から植え付けられた遺伝子は消えませんし今もお金の為に受験就職成績など最も他の人と戦わなければなりません

そう考えると人間が争ってる間は消えない感情なのかもしれません、人間らしいっちゃらしいですが

ここまで人間の感情についてロジカルに語ったのですがここからが本題です

感情と評論家の違い
ここまで論理的な分解をしてきました、でも人ってそれだけじゃないという話を最後にちゃんとしたいと思います

先程の「美味しい」って感性は確かに人間の評価として一つの材料です、ですがそれとは別に「気持ち」でもあります

人間はひどく頭が良い、だからあらゆる情報を駆使して食物連鎖の頂点に立った、たとえそれが自分の気持ちであれ生存競争に汲み入れた
それが私の見解です

評価の前に採点がある、採点の前に情報がいる、情報の前に気持ちがあった
要するにその「気持ち」は本来採点されるモノじゃないということです

自分の喜びも自分の悲しみも、比較するものじゃないそのまま受け入れてもいい
元の素材をそのまま吟味できるものだという

生きるために気持ちが作られてるんじゃない、生きるために気持ちを使う必要があった
ここで言いたいのはその違いです

締めくくり
自分は感情に振り回される側なのでどうにかしたいですね笑経験を重ねて折り合いつけれるよう頑張りたい所存です

もしこのブログが何かの参考になれたら幸いですm(_ _)m
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