イエスの生き方、すべてが模範となる

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コラム
イエスが、死人を生き返らせた、病気を一瞬で治した、真理を説いた、などの偉業を讃えるのは、ある意味で当たり前なのだが、もっと突っ込んで考えてみてほしいのは、イエスの生き方、状況、そのすべてが我々の模範となるということです。
たとえば、あなたが、小馬鹿にされたり、軽く扱われたり、悪者に仕立て上げられたりしたら、気分が悪いですよね?でも、イエスは大衆から、小馬鹿にされ、軽く扱われ、悪者に仕立て上げられました。
神でさえ、このような目に合うのだから、神より下の存在である我々は、同じ目に合うのは当然ではありませんか?
イエスが故郷に戻った時、町の人々は、半分、小ばかにしたような感じでイエスを迎え入れました。「ああ、イエスかい、あいつがガキの頃から知ってるよ、別にそんなたいした奴じゃなかったけど、地方で司祭にも認められて、なんか出世したらしいじゃんかよ?wどれ、俺たちにも説教してくれよ」とこんな感じで軽く扱われていましたよね。これで当然、イエスも気分が悪いし、人を見下してる人間に対して何も言うことは無いと、故郷を後にするわけです。
さらにイエスが罪人に仕立て上げられ捕まえられたときにも、兵士から唾を吐きかけられ、殴られ、さらには、「ユダヤの王ばんじゃーいw」と馬鹿にもされたわけです。さらには、処刑の間際ですら、「お前が救世主なら、まず自分を救ってみせろよ」と揶揄されたのです。
イエスが数々の奇跡を見せても7~8割ぐらいの人は、別に大した奴じゃない、
大言壮語も甚だしい、とこう思っていたわけですよね。
それが、大衆であり、それがこの世というところなんだよ、っていうのを神様があらかじめシナリオを書いて、自らをそういう状況になるようにもっていったわけです。でもシナリオを自分で知っていると、「ああ、これはこういう状況になるように自分で書いたんだったな」とわかるので、そうすると、自分が処刑されるシーンで、逆にクスクスと笑ってしまうかもしれない、それではまずいので、次元の壁を越えて、この世にやってくる際に、自らの記憶の一部を封印し、能力にも制限をかけた。これらすべてを含めて、シナリオなのです。
だから、あなたが小ばかにされて、軽く扱われても、「くそぉ、今に見てろよ~!」とか「見返してやるぞ」とか「自分の価値を認めさせる」とか気負う必要はないし、ましてや自分が正しいことを弁解する必要もないわけです。気分が悪くても、神様も同じように気分悪かっただろうなぁと思っていればいいのです。


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