イエスは、あくまでも、人として振る舞った

イエスは、あくまでも、人として振る舞った

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コラム
神が地上に、自らの分身であるイエスを送り込んだが、あくまでもイエスは神ではなく人として振る舞った。だから、たいていの人間は、彼を崇めるでもなく、恐れおののくわけでもなく、ひざまずくでもなく、普通に、普通の人と相対するように彼と話をしたのだ。モーセは、神の姿の片鱗でも目に入れば、もはや生きてはいられないと言うほど、神を畏怖していた。実際、神の言うことは絶対であるのだ。だから偶像崇拝するなと言っていたのに、金の牡牛の像を作って、その周りで踊っていた民衆を、皆殺しにさせ、ミディアン人との戦闘では、捕虜にした非処女をも皆殺しにしたほど、苛烈なことをした。本来、それくらい神の言うことは重いものであるのだ。もし、我々がモーセの時代に生きていたならば、ほぼ一人残らず、処刑されていたであろうことは間違いない、つまり我々は、歴代の預言者から見れば、はっきり言って見るに堪えないおぞましい生き物として映るであろう。しかし、神は、決して恐れおののかれたいとは思っていない。むしろ愛されたいのだ。人間に愛されたいがゆえに、イエスという、今までの預言者と比べれば、はるかにぬるい、はるかに穏やかな性格の存在を、地上に送り込んだ。もちろん、言っていることは今までの預言者同様に重いのではあるが、慈悲と慈愛と優しさを重視して、厳しさは後に置いたのだ。彼は決して居丈高には振る舞わなかったし、自分を特別扱いしろとも言わなかった。あまりにも普通に、人として振る舞うものだから、目の前に神の子(というか神の分身)がいるというのに、ほとんどの人は、その辺の一般人とさして変わらないだろうと思っていたのだ。なので、とある女が、ユダヤ人を救うための救世主が、必ずこの世にやってくるのよ、そういう言い伝えがあるのだから。とイエスを目の前にして、淡々と話すものだから、イエスは自ら、「それは私のことだ」と普通に言ったのだ。それで女が、それに素直に納得するというのも、なかなかすごい話なのだが、本来、神というのは、天の父というくらいで、我々は親子なのだから、そこまで仰々しい感じに相対する必要がないのだ。もちろん父は厳しい。だが、愛情深くもある。神様だって嫌われたくはないのだ。
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