イエスがファリサイ派祭司長や律法学者たちによって、処刑台へと送り込まれる前の日に、イエスは、天の父(ヤハウェ)に真意を問うた。
イエスは「神の意識」と「人の意識」が同時に存在しているので、「人の意識」がある段階では、普通の人間と同じように死を恐れる。ゆえに、普通に死にたくないのだ。そこで天の父に、なぜ私がこのような目に合うのか、問うたのである。
そして、真意を理解したイエスは、決断する。自ら処刑台へと赴くことを。
天の父(ヤハウェ)は、自分の愛する御子を、悪魔の僕に引き渡し処刑させることでしか、成し遂げられないことがあると、言い聞かせたのだ。
さて、イエスが処刑されたのち、直弟子たちは、宣教するため各地へ赴いた。
12人の直弟子のうち、リーダー格であったペトロとヨハネ。
ペトロは、イエスが処刑される間際、自分の命が惜しかったために、自らの師を、あの人のことなど全然知らないと、無関係を装った。
イエスは人の弱さを知っておられたので、失望はしただろうが、そのことを咎めはしなかった。その時はまだ。
しかし、ペトロがローマで布教を行っていた時、ローマ皇帝ネロの怒りを買い、捕まれば処刑される!というとき、取り巻きたちが、こっそりペトロをローマから逃がそうと画策していたときのことだ。
ペトロも致し方なし、と思い、ローマから去ろうとしていた、その時だった。
イエスが現れ、ローマ市街地へと歩いていくのを見たのである。
そこでペトロは驚き、イエスへ問いかける。「主よ、どちらへ行かれるのですか?」と聞くと、イエスは「ペトロよ、私の民を見捨てて、ローマから逃げ出すのなら、私がもう一度、十字架にかけられよう」とこう言ったのだ。
ペトロは、これを聞いて、思い直した。また、あの時と同じように、主を失望させ、そして主を晒し物にするのか、私は・・と。
そしてペトロは決断する、自ら処刑台へと赴くことを。
イエスは天の父(ヤハウェ)が自分にしたように、ペトロを処刑台へ送り込んだのだ(強制ではないが、間接的にはイエスがペトロを送り込んだようなもの)それは、なぜなのか、わかるだろうか。
実は、イエスは最初から言っているのだ「私の弟子になりたいものは、自らの十字架を背負ってついてきなさい」と。だから、命を捨てる覚悟がないものは弟子になるなと、最初から言っていた、にも関わらず、まだ自らの命惜しさに逃げ出すのかと、こういうわけだ。
いや、実際にはもっと深い意味がある。間違っても、「武士道とは死ぬことと見つけたり」のようなものと思ってはならない。
そうではなく、この世というものが、魂の選別場であり、あくまで仮住まいの場であると理解してたなら、死は恐れるものでは無い、ということだ。
のちの世で、報われるのだから。
そして、もう一つ、命より大事なものは無いはずだが、その命を捨てて自らの墓標を、しるべとした彼らに対し、何の敬意も表さず、好き勝手生きてきた人間が、天国へ行けるだろうか?
「信仰のために命をも捨てた?そりゃご苦労なこった、でも俺たちゃキリスト教徒じゃないから関係ないし、好き勝手生きさせてもらうわ」なんて凡人たちは、必ず地獄へ行くだろう。そういう人間は地獄へ行っても神は心を痛めることはない。
彼らが悪魔のしもべに引き渡され処刑されなければいけなかった、その理由は
私たちが、信仰を守るために他ならない。
命より大事なものは無いはずなのに、その命をも使ったのだから、あなたがたは頼むから、信仰を守ってくれよと、こういうことだ。
そうすれば死ぬことはない。死ぬ役目は先人たちが果たしてくれたのだから。