🕊️ 引き寄せなくていい。想いだせばいい。
「想いだす法則」という、ちょっと自由な人生の話
「想いだす法則」。
ちょっと不思議な名前ですが、私がこれまでの人生で経験し、感じ、考えてきたことから生まれた、私なりの人生観です。
なかでも、私自身の体験から最も強く実感しているのが、「憧れる」ということ。
実は私には、かつて、当時の自分にとって最大の憧れが現実になった経験があります。
振り返ると、その実現には「憧れを抱くこと」が大きく関わっていたと感じています。
この「想いだす法則」のなかでも、特に「憧れ」に焦点を当てれば、「憧れの法則」とも呼べそうです。
そして今、私には新しい憧れがあります。
この「想いだす法則」を出版社に企画として提案して、いつか一冊の本になったら素敵だなあ、と。
どうやら私は、憧れることが好きなようです。(笑)
さて、今回は、この「想いだす法則」の全体像について、お話ししたいと思います。
難しい話は、ひとまず横に置いて。
コーヒーでも飲みながら、気楽にお付き合いください。☕
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「引き寄せの法則」って、聞いたことがありますか?
強く願えば、願ったものが引き寄せられてくる。
そんなふうに説明されることがあります。
お金、恋愛、仕事、幸せ……。
なんだか、宇宙が経営する通販サイトみたいですよね。
欲しいものを思い浮かべて、注文ボタンをポチッ。
あとは宇宙からの配達を待つだけ。
できれば送料無料でお願いしたいところです。(笑)
でも、私は以前から、この「引き寄せる」という言葉に、ちょっと違和感がありました。
そもそも、本当に引き寄せる必要があるんだろうか?
もしかしたら、最初から「ある」のでは?
だったら、わざわざ引き寄せなくてもいい。
想いだせばいいだけなのでは?
探していたメガネは、既にかけていた
例えば、メガネを探している人。
「あれ? メガネがない!」
机の上を探し、引き出しを開け、家族にまで聞いてみる。
「私のメガネ、知らない?」
すると家族が一言。
「……今、かけてるけど?」
あらら。
探していたメガネは、最初から自分がかけていた。
しかも、そのメガネを通して、ずっと世界を見ていたんです。
これって、人生にも似ていませんか?
幸せになりたい。
愛されたい。
豊かになりたい。
もっと自由になりたい。
でも、その前に少し考えてみたいんです。
本当に、今は何もないのでしょうか?
既にあるものに、気づいていないだけではないでしょうか。
ここでいう「既にある」とは、欲しいお金や物を、何でも既に所有しているという意味ではありません。
本来の自分の中にあるもの。
自分と世界とのつながりの中にあるもの。
まだ気づいていない価値や可能性。
そして、自分が本来どのような存在なのか、ということ。
私は、そうしたものを含めて「既にある」と考えています。
ないから引き寄せるのではなく、既にあるから想いだす。
ここで、あえて「思い出す」ではなく「想いだす」と書いていることにも、意味があります。
単に忘れていた記憶を取り戻すのではありません。
本来の自分の想い。自分が大切にしたかったこと。本当に望んでいたこと。そして、自分はどんな在り様でいたかったのか。
そうしたことに気づいていく。
私は、その働きを「想いだす」と呼びたいんです。
現実は、心を映す鏡なのかもしれない
私は、現実を「思考や心を映す鏡」のように捉えています。
例えば、同じ雨の日でも、
「せっかくのお出かけなのに、最悪!」
と思う人もいれば、
「雨の音って、なんだか落ち着くなあ」
と思う人もいます。
雨は同じ。でも、体験している世界は違います。
同じ出来事でも、心の在り方によって、受け取る意味が違ってくる。
これは、私たちにも身近な感覚だと思います。
もちろん、私が「晴れてほしい!」と念じたからといって、雨雲が慌てて退散してくれるとは限りません。
そこまで気を遣ってくれる雨雲には、まだ出会ったことがありません。(笑)
ただ、私が考えているのは、単なる気分の切り替えやポジティブ思考だけではありません。
もう一歩踏み込んで、現実という世界そのものが、心を映し出す鏡のような仮想現実なのではないか。
そんなふうに考えています。
もちろん、これは科学的に証明された法則ではなく、私自身の哲学的な仮説です。
そして、この鏡について、大切にしていることがあります。
何を想いだすかという選択が、自分の体験する現実に映し出される。
愛を想いだす。
自由を想いだす。
豊かさを想いだす。
その想いによって、物事の見え方や選択、行動が変わり、それまでとは違う現実を体験することもある。
そして、その体験から、さらに多くのことに気づいていく。
もちろん、自分に起こるすべての出来事を、思考だけで自由に操作できるという話ではありません。
他の人の意思もあれば、偶然の出来事もあります。
それでも、何に心を向け、何を大切にし、どんな方向へ進むか。そこには、自分の意思が関わっています。
人生とは、何かを引き寄せるための場所ではなく、既にあるものを、さまざまな現実の体験を通じて想いだすための場所なのかもしれません。
子どもがおもちゃで遊んだら、部屋が散らかった
ここで、「想いだす法則」を、もっと身近な例で考えてみましょう。
ある日、子どもがきれいに片付いた部屋で、おもちゃ遊びを始めました。
積み木を積んだり、電車を走らせたり、ぬいぐるみを並べたり。
あれも楽しい。これも面白い。
夢中になって遊んでいるうちに、部屋はおもちゃでいっぱいになりました。
さっきまで片付いていた部屋は、すっかり散らかっています。
でも、子どもは楽しかった。
いろいろな遊びを体験できたのですから。
そして、散らかった部屋を見て、ふと気づくこともあるでしょう。
「あれ? さっきはもっと広かったよね?」
「おもちゃがない床って、歩きやすかったんだなあ」
遊ぶ前の部屋の様子を思い出す。
そして、片付いていた部屋の広さや心地よさに、改めて気づく。
ここが面白いところです。
単に、以前の部屋の様子を記憶から思い出しただけではありません。
それまで当たり前だった心地よさの価値を、改めて想いだしたのです。
ところで、子どもは最初から「部屋を散らかそう!」と思って遊び始めたのでしょうか?
おそらく、そうではありません。
ただ、遊びたかった。
面白そうだから、やってみたかった。
そして、遊ぶこと自体を楽しんだ。
その結果、部屋が散らかり、さらに別の気づきが生まれた。
つまり、一つの遊びから、いくつもの価値を体験できたわけです。
ここで大切なのは、片付いた部屋が正解で、散らかった部屋が間違いという話ではないこと。
遊んでいるときには、散らかった部屋にも楽しさがある。片付いた部屋には、また別の心地よさがある。
どちらにも、それぞれの価値があるんです。
そして、遊び終わったら、おもちゃを片付けてもいい。
もちろん、片付けることだって、また一つの体験です。
……もっとも、子どもにとっては、そこが一番難しいところかもしれませんね。(笑)
私は、人生もこれと似ていると思うんです。
本来の自然な在り様がある。
そこから、さまざまな思考を通じて、いろいろな現実を体験する。
その体験そのものを楽しむこともあれば、乱れを経験することで、本来の在り様に改めて気づくこともある。
乱れは、必ずしも失敗ではない。
しかも、気づきや成長を目的にしなくても、ただ夢中になって体験すること自体に価値がある。
その体験から、自然に何かを想いだすこともあるのです。
同じ海へ行くなら、どうやって行く?
さて、今度は少し旅行の話をしましょう。
例えば、10km先に美しい海があるとします。
その海を見に行くことにしました。
さて、どうやって行きましょう?
歩いて行く。
走って行く。
自転車で行く。
自動車で行く。
どれでも、目的地は同じ海です。
でも、途中で経験することはまったく違います。
歩けば、道端の花や街の小さな変化に気づくかもしれない。
走れば、汗をかき、自分の体力や達成感を味わうかもしれない。
自転車なら、風を切る爽快感を楽しめる。
自動車なら、好きな音楽を聴きながら、ゆっくり考え事もできるでしょう。
さて、どれが正解でしょう?
私は、どれでもいいと思います。
大切なのは、どんな体験をしたいか。
早く到着したいなら、自動車がいいかもしれない。
道中の景色を楽しみたいなら、歩くのもいい。
風を感じたいなら、自転車を選べばいい。
もちろん、途中で手段を変えてもいいんです。
歩いていたけれど、疲れたからバスに乗る。
走っていたけれど、素敵なカフェを見つけたから休憩する。
なんなら、海へ行く途中で出会った人と話し込んでしまってもいい。
「海はどうした?」って?
まあ、海は逃げませんから。
人生も、これと似ていると思うんです。
心が惹かれるものや、想いだしたい在り様が、旅の方向を示してくれることがある。
そして、その方向へどんな道を通って進むかは、自分で選べる。
同じものを想いだすとしても、そこに至る体験は違います。
目的地を選ぶ自由。そして、手段を選ぶ自由。
私は、この二つをとても大切にしたいと思っています。
でも、その道、本当に自分で選んだの?
ここで、もう一つ面白いことがあります。
私たちは、いつも意識的に手段を選んでいるわけではありません。
例えば、さっきの海への道。
本当はゆっくり歩いて景色を楽しみたいのに、なぜかいつも走ってしまう人がいるとします。
「急がなければならない」
「人より早く着かなければならない」
「立ち止まってはいけない」
そんな考えが、知らず知らずのうちに身についているのかもしれません。
私は、これを「思考パターン」と考えています。
思考パターンとは、これまでの人生で積み重ねてきた体験によって形成された、習慣的な考え方のこと。
例えば、子どものころから「頑張れば認めてもらえる」という経験を繰り返してきた人は、大人になっても、無意識に頑張り続けることを選びやすいかもしれません。
それが当たり前になっているんです。
ところが、ある日、走り続けることに疲れてしまう。
そして、ふと思う。
「あれ? 私はどうして、こんなに急いでいるんだろう?」
そこで初めて気づく。
「本当は、ゆっくり景色を楽しみたかったんだ」
と。
これも、一つの大切な体験ですよね。
無意識に働いていた思考パターンが選択に影響し、その結果として現実を体験する。
そして、その体験から、自分の内側にある想いに気づく。
私は、それさえも「想いだす法則」の一部だと考えています。
しかも、思考パターンそのものが悪いわけではありません。
いつも頑張ってしまう人は、その思考パターンによって、努力の喜びや達成感を経験してきたかもしれません。
一方で、頑張りすぎて疲れてしまい、自分を大切にすることを想いだすかもしれない。
どちらも、その思考パターンが関わったからこそ生まれた体験です。
つまり、思考パターンそのものも、想いだすための手段になり得る。
だから、気づいたからといって、必ず修正しなければならないわけではありません。
もちろん、長年身についた思考パターンを、すぐに変えられるとは限りません。
でも、今まで当たり前だと思っていた選択に、別の可能性があると気づく。
それだけでも、選択する自由は少しずつ広がっていくのではないでしょうか。
思考パターンは、人生という旅で身につけた道具のようなもの。
便利なら使えばいい。
必要なくなったら、少しずつ手放してもいい。
大切なのは、道具に使われ続けるのではなく、道具を自分で選べるようになることです。
心を乱す思考も、体験のための乗り物
ここで、一つ疑問が生まれます。
本来、すべてが既にあるのなら、なぜ不安や悲しみ、葛藤や執着なんてものがあるのでしょう?
最初から幸せいっぱい、毎日ニコニコでいいじゃないですか。
できれば、人生の面倒なイベントは全部スキップしたい。
「このイベントをスキップしますか?」
はい。迷わずクリック。
でも、私はこう考えています。
心を乱す思考も、価値ある体験をするための手段なのではないか。
例えば、「愛を想いだす」ということを考えてみます。
穏やかな日々の中で、誰かと一緒に過ごす幸せから愛を感じることもあるでしょう。
一方で、大切な人とのすれ違いや、別れの悲しみを通じて、愛の深さに気づくこともあります。
同じ愛を想いだすとしても、そこに至る体験は違う。
歩いて海へ行くのか。走って海へ行くのか。
それと似ていると思うんです。
不安を生む思考や、比較や執着につながる思考パターンも、ある体験を生む手段になることがあります。
その思考が関わる現実を体験したからこそ、気づけたこともある。
だとしたら、乱す思考も、ただの邪魔者ではありません。
もちろん、苦しまなければ成長できない、という意味ではありません。
喜びから学んでもいい。
穏やかな日々の中で想いだしてもいい。
また、不当な苦しみを受けた人に対して、「その経験は必要だった」と決めつけたいわけでもありません。
私が大切にしたいのは、どんな体験からも、何かに気づく可能性があるということです。
そして、もう一つ。
体験を終えたなら、その思考を手放してもいい。
さっきのおもちゃ遊びと同じです。
楽しく遊んだ。
部屋が散らかった。
片付いた部屋の心地よさも想いだした。
だったら、おもちゃを片付けてもいい。
遊んだことを後悔する必要もなければ、散らかった状態を永遠に維持する必要もありません。
不安から大切なことに気づいたなら、その不安を持ち続けなくてもいい。
悲しみから愛を知ったなら、その悲しみにずっと住み続けなくてもいい。
もちろん、感情はスイッチのように簡単には切り替わりません。
「はい、悲しみ終了!」
なんてボタンがあれば便利でしょうけど、人間の心はそう簡単ではないようです。
でも、「もう、この思考にしがみつかなくてもいいんだ」と気づくことはできます。
体験から得たものは大切にする。
でも、その体験に関わった思考まで、抱え続けなければならないわけではありません。
その思考を手放していく選択があってもいい。
そして、すぐに手放せなくても、かまわない。
自分のペースで、次の体験を選んでいけばいいのです。
憧れは、魂が本来の在り様を想いだすショートカット
さて、ここで、冒頭にお話しした「憧れ」に戻りましょう。
私には、かつて、その当時の最大の憧れが現実になった経験があります。
その経験は、私が「憧れる」ということを特別に感じるようになった理由の一つです。
そして、経験を重ね、考えていくうちに、憧れには、単に何かを手に入れることとは違う働きもあるのではないか、と思うようになりました。
それが、「想いだす」ということです。
例えば、海の見える家で暮らしたいと思ったら、
「あんな家に住めたら素敵だなあ」
「朝、窓から海が見えたら気持ちいいだろうなあ」
「潮風を感じながら、コーヒーを飲む時間っていいなあ」
そんなふうに、素直に憧れてみる。
無理に実現させようとしなくてもいい。
どうすれば手に入るのか、今すぐ考えなくてもいい。
ただ、憧れる。
実は、この「憧れ」というもの、なかなか便利なんです。
なぜなら、不安や不足といった、心を乱す思考をスルーしやすいから。
「でも、お金がないし……」
「そんなの無理だよ……」
そんな考えが浮かんできても、
「ああ、そういう考えもあるね」
くらいでいい。
いちいち議論する必要はありません。
心の中で反対意見が出るたびに緊急会議を開いていたら、いつまでたっても閉会できませんからね。
ここで大切なのは、憧れと不足を混同しないことです。
「あの人は持っているのに、私は持っていない」
という比較ではなく、
「あんな在り様って、素敵だなあ」
という純粋な憧れ。
例えば、自由に生きている人を見て、
「あんなふうに生きられたら素敵だなあ」
と感じたとします。
このとき、本当にその人になりたいのでしょうか?
同じ仕事をして、同じ家に住み、同じ人生を歩みたいのでしょうか?
きっと、そうとは限りませんよね。
心が惹かれているのは、その人が体現している「自由」という在り様なのかもしれません。
憧れは、外側にある何かに向かうこともあります。
でも、その奥には、自分が本来大切にしたかった在り様が隠れているのかもしれません。
憧れることによって、本来の自分の想いに気づく。
私は、この働きに大きな意味があると考えています。
ここで、少し「魂」の話をさせてください。
私は、人生の現実を体験する自分とは別の役割として、その体験から気づきや学びを受け取る自分を「魂」と捉えています。
その魂が、さまざまな体験を通じて、本来の在り様を想いだしていく。
そして、魂の成長とは、足りないものを付け足していくことではありません。
本来あるものを想いだし、その理解を深めていくこと。
想いだすことで成長し、成長することでさらに想いだす。
この二つは、別々のことではなく、一つの循環なのだと思います。
ただ、そのために、必ずしも不安や葛藤を経験する必要はありません。
何かに心から憧れることで、
「ああ、私は、こういう在り様に惹かれていたんだ」
と、本来の自分に気づくこともある。
だから、私はこう考えています。
憧れとは、魂が本来の在り様を想いだすショートカット。
遠回りしながら想いだすこともできる。
憧れを通じて、近道することもできる。
どちらにも、それぞれの体験があります。
そして、ここでも大切なのが、選択する自由です。
憧れを抱いたからといって、必ず実現させなければならないわけではありません。
また、憧れれば必ず望んだ出来事が起こるという保証でもありません。
本来の在り様を想いだすことと、それを現実の中で体験することは、必ずしも同じではないからです。
憧れを楽しむ。
実現に向けて行動する。
途中で違う道を選ぶ。
どれでもいい。
憧れは、本来の自分を想いだすための道標にもなる。
そして、想いだしたものを、どのような形で体験していくのか。
そこにも、また選択する自由があるのです。
人生には、無駄な体験などないのかもしれない
ここまで考えてくると、人生に対する見方も変わってきます。
成功したこと。
失敗したこと。
嬉しかったこと。
悲しかったこと。
迷っていた時間。
思いどおりに進まなかった出来事。
そして、自分でも気づかない思考パターンによって、何度も繰り返してきた体験。
そのどれもが、何かを想いだすための機会になり得る。
だから私は、こう考えています。
人生で体験する現実には、無駄なものはなく、すべてに意味がある。
これは、私が人生経験と思考を通じて抱くようになった考え方です。
ただし、その意味に、すぐ気づけるとは限りません。
何年も経ってから想いだすこともあるでしょう。
あるいは、今は意味がわからなくてもいい。
無理に意味を見つけようと頑張る必要もありません。
体験することそのものに価値があり、そこから何を受け取るかも自由なのですから。
もちろん、すべての苦しみが起こる必要があったと決めつけるつもりもありません。誰かの不当な行為や、望まなかった出来事まで正当化する話でもありません。
それでも、後になって、
「ああ、あの経験から、こんなことに気づけたんだ」
と思う日が来るかもしれません。
そして、その意味を見いだすかどうかも、本人が選んでいい。
さらに私は、ここから、もう一つのことを想うようになりました。
私たちは、自分の憧れに気づくために、この世界に生まれてきたのではないだろうか。
子どものころに憧れた職業。
初めて見た美しい景色。
心を動かされた音楽。
誰かの優しい言葉。
自由に生きている人の姿。
そして、ときには、自分でも理由がわからないのに、なぜか強く心が惹かれるもの。
不思議ですよね。
まだ経験したことがないのに、なぜか懐かしい。
まだ手に入れていないのに、なぜか心が落ち着く。
まだ出会っていないはずなのに、ずっと知っていたような気がする。
そんな感覚を覚えることがあります。
それは、魂が本来の自分の在り様を想いだしかけているからなのかもしれません。
もし、そうだとしたら。
私たちがこの世界に生まれ、さまざまな現実を体験しているのは、何かを新しく獲得するためだけではない。
本来の自分の憧れに気づき、その在り様を想いだすためなのかもしれない。
憧れを実現することだけが大切なのではありません。
憧れに気づくこと自体にも、意味がある。
そして、その憧れをどのような形で体験するかは、自分で選べばいい。
何者かになることではなく、本来の自分を想いだすこと。
それが、私たちがこの世界に生まれた意味の一つなのではないか。
私は、そんなふうに考えています。
一番大切なのは「選択する自由」
さて、ここまでいろいろとお話ししてきました。
最初はメガネを探していただけなのに、いつの間にか魂や人生の意味の話になっています。
ずいぶん遠くまで来ましたね。
でも、私が最も大切にしたいことは、実はとてもシンプルです。
「選択する自由」
これに尽きます。
何を想いだすかを選ぶ自由。
どんな体験をするかを選ぶ自由。
どんな手段を使うかを選ぶ自由。
思考パターンに気づき、必要なら選び直す自由。
役割を終えた思考を手放す自由。
そして、どんな経験に、どんな意味を見いだすかを選ぶ自由。
私たちは、ともすると「正しい人生」を探してしまいます。
成功しなければ。
幸せにならなければ。
成長しなければ。
もっと立派な人間にならなければ。
……「なければ」が多すぎませんか?
人生が「ねばならない」の詰め合わせセットになっています。
でも、そもそも、誰がそのルールを決めたのでしょう。
成長したいなら、成長すればいい。
立ち止まりたいなら、立ち止まってもいい。
何かを想いだしたいなら、想いだせばいい。
憧れたいなら、憧れればいい。
今は何も選びたくないなら、無理に選ばなくてもいい。
そして、一度選んだことを、選び直してもいい。
自分の人生なのだから。
もちろん、現実には自分の意思だけでは変えられない出来事もあります。
選択肢が限られることもあれば、選んだとおりの結果にならないこともあります。
それでも、自分が何を大切にし、どんな方向へ進みたいのか。
そこに、自分の意思を持つことはできます。
人生のすべての体験を、必ず成長につなげなければならないわけでもありません。
想いだすことさえ、自由でいい。
私は、そう思っています。
引き寄せなくていい。想いだせばいい。
こうして、私の人生経験と思考から生まれたのが、「想いだす法則」という考え方です。
人生は、足りないものを集めるスタンプラリーではないと思うんです。
どれだけ集めても、また次のスタンプが欲しくなってしまいますから。
むしろ、人生とは、既にあるものを自由な選択と体験を通じて想いだしていく旅なのかもしれません。
遠回りしてもいい。
近道してもいい。
道を間違えてもいい。
途中で立ち止まってもいい。
その道でしか出会えなかった景色が、あるかもしれません。
そして、もし何かに憧れたなら、その気持ちを大切にしてみてください。
それは、魂が本来の自分を想いだそうとしている、小さな合図なのかもしれません。
さて、あなたは今日、何を想いだしたいですか?
そして、それを、どんな体験を通して想いだしたいですか?
探していたものは、遠くから引き寄せる必要なんてなかったのかもしれません。
ほら、最初からかけていたメガネみたいに。
そのメガネを通して、ずっと世界を見ていたのですから。
引き寄せなくていい。想いだせばいい。
何を想いだし、どんな体験をするか。その選択の自由こそが、最初からあなたにあるのです。