🦋 人生の問いも答えも、偶然から。未来の必然は、自分でつくる。

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記事
学び

仕事で行き詰まったとき、私たちは一生懸命に調べたり、答えを探したりします。

でも、何気ない会話や、たまたま目にしたものから、思いもよらないことに気づく日もありますよね。

それは仕事だけでなく、男女の出会いや、長く知っている相手との関係、人生の選択でも同じかもしれません。

偶然は、いつも幸運を運んでくれるわけではありません。それでも、自分では思いつかなかった問いに出会い、新しい道を選ぶきっかけになることがあります。

これは、答えを探していた一人の女性が、そんな偶然に出会う物語です。




💫 まだ知らない問い

答えを探すなかで、偶然出会ったもの



雨の降る木曜日だった。

久美子は、教室の窓から外を眺めていた。

駅から歩いて七分ほどの場所にある、小さなカルチャースクール。三年前、会社を辞めて始めた教室だった。

絵画、写真、文章、手芸。

開業した頃は、どの講座にもそれなりに人が集まっていた。ところが、ここ半年ほど、受講者が少しずつ減っている。

広告の出し方が悪いのだろうか。

料金が高すぎるのだろうか。

それとも、講座そのものに魅力がなくなったのだろうか。

久美子は考えられる原因を一つずつ調べていた。

机には、競合教室の資料や地域の人口統計、人気講座のランキングが積み重なっている。

調べるほどに情報は増えた。しかし、これという答えは見つからなかった。

午後四時過ぎ、入口のドアが開いた。

「まだやってたのか」

顔を出したのは、学生時代からの友人である修だった。

近くで古書店を営んでいる。

「仕事だからね」

「休みの日も、そんなこと言ってなかったか」

「だって、考えないといけないことが山ほどあるんだもの」

修は机に置かれた資料を眺めた。

「ずいぶん調べたな」

「調べるだけなら、誰にも負けないと思う」

「それで、何かわかった?」

「わからないことが増えた」

修は笑った。

久美子は少し不機嫌になった。

「笑いごとじゃないのよ」

「悪い、悪い」

修は椅子に腰を下ろした。

「じゃあ、少し違うことをしてみるか」

「違うこと?」

「関係のない情報を調べてみる」

久美子は眉をひそめた。

「何のために?」

「それを考えるために」

「意味がわからない」

「俺も、うまく説明できないんだけどさ」

修は窓の外に目をやった。

「俺たちは何かを調べるとき、最初から調べる範囲を決めてるだろう。料理のことなら料理の本。経営のことなら経営の本。そういう探し方じゃ、いつも同じ場所を歩くことになるんじゃないかと思って」

「それが普通でしょう」

「うん。普通だし、必要なことだと思う」

修は少し考えてから続けた。

「ただ、その普通の探し方で見つからないなら、別の道を歩いてみてもいいんじゃないか」

久美子はすぐには答えなかった。

窓の外では、傘を差した人たちが足早に駅へ向かっていた。

「その別の道で、何か見つかる保証はあるの?」

「保証なんてないよ。でも、いつもと違うものに出会えるかもしれないだろう」

「ずいぶん無責任ね」

「そうかもしれない。でも、何も見つからなかったら、また別のことを考えればいいさ」

久美子は思わず笑ってしまった。

* * *

次の日曜日、二人は市立図書館へ出かけた。

修は図書館の案内図を広げ、小さな紙を十枚取り出した。

「何をするの?」

「くじを作る」

二人は案内図と書架の表示を見ながら、普段なら手に取らないような分野を十種類選んだ。

陶磁器、鳥類、土木工学、天文学、鉱物学。どれも、二人にとって馴染みの薄い分野だった。

修はそれぞれの分野名を紙に書き、折りたたんだ。

「これを引いて、読む本の分野を決めよう」

「それで、本はどうやって選ぶの?」

「数字のくじも作ろう」

修は別の紙に一から十までの数字を書き、同じように折りたたんだ。

「分野が決まったら、入口に近い方の書架から、十冊以上並んでいる最初の段を探そう。その段の左端から、くじで出た番号の本を取るんだ」

「なるほど。自分の興味では選ばないってことね」

「そう。まあ、最初の十種類は俺たちが選んでるから、完全な無作為じゃないけどな」

「それでも、いつもの本の選び方とは違うわね」

「そういうこと」

修は分野のくじをよく混ぜ、久美子の前に差し出した。

「じゃあ、一枚どうぞ」

久美子は目を閉じて一枚を引いた。

「陶磁器だって」

「まずは陶磁器の棚だな」

二人は案内図を確かめ、該当する書架へ向かった。

十冊以上の本が並ぶ段を見つけ、今度は数字のくじを引いた。

「三」

修は本を左端から数えた。

「一、二、三。これだな」

取り出したのは、陶磁器の釉薬について書かれた本だった。

二人は本を持って、閲覧席へ移った。

「本当に、今の仕事と関係ないわね」

「だから面白いんじゃないか」

「面白いかどうかは、まだわからないわよ」

久美子は笑いながら、本を開いた。

二人は三十分ほど読んだ。

色鮮やかな器の写真や、釉薬の成分、焼成温度による色の変化などが詳しく説明されていた。

「どう?」

修が尋ねた。

「きれいな器がたくさん載ってる」

「教室について、何か思いついた?」

「別に」

「そうか」

「でも、知らないことばかりだった。陶器の色って、こんなに複雑なのね」

修は頷いた。

「じゃあ、もう一枚引いてみよう」

久美子は残りの分野のくじを混ぜ、一枚を引いた。

「鳥類」

今度は鳥類の書架へ向かった。

数字のくじも戻して混ぜ直し、引いた番号の本を取り出した。

渡り鳥の生態について書かれたものだった。

二人は再び閲覧席に戻った。

久美子は、鳥が長距離を移動する仕組みについての説明を読んだ。

「すごいわね。こんなに遠くまで飛ぶんだ」

「何か思いついた?」

「鳥の講座を作るとか?」

「それは新しいな」

「冗談よ」

二人は笑った。

結局、二冊を読んでも、教室の問題につながるような発見はなかった。

「ねえ、修」

「ん?」

「やっぱり時間の無駄なんじゃない?」

「かもしれない」

「そこで同意する?」

「何でも役に立つって言ったら、嘘になるからな」

久美子は本を閉じた。

「じゃあ、どうしてこんなことを?」

修は少し黙った。

「俺の店でも、似たようなことがあったんだ」

修の古書店は、父親の代から続いていた。

修は数年前、売上を増やそうとして、本の並べ方を大幅に変えたことがあった。

売れ筋の本を目立つ場所に置き、動きの鈍い本は奥へ移した。

一般的には合理的な判断だった。

ところが、昔から通っていた客の一人に言われた。

「この店、知らない本と出会う楽しさが減ったね」

修は最初、その意味がわからなかった。

「探している本を見つけやすくしたつもりだったんだ。でも、その人にはつまらなくなったらしい」

「それで?」

「棚を少し戻した。売上が増えたかどうかは、正直よくわからない。でも、便利にしたつもりが、何かを失くしていたのかもしれないと思ったんだ」

久美子は、修の顔を見た。

いつも冗談ばかり言っている男が、そのときは珍しく真面目な表情をしていた。

「それと、くじで本を選ぶことが関係あるの?」

「直接は関係ないかもしれない。でも、自分が選ぶものばかり見ていたら、自分が選ばなかったもののことは、いつまでもわからないだろう」

久美子は、もう一度本棚を見渡した。

「じゃあ、あと一冊だけ」

「いいのか?」

「せっかく来たんだから」

* * *

三枚目の分野のくじには、「土木工学」と書かれていた。

二人は土木工学の書架へ向かった。

数字のくじを引き、指定された位置の本を取り出す。

橋の設計について書かれた技術書だった。

二人は閲覧席へ戻った。

久美子はページをめくりながら、図の多さに驚いた。

橋桁、支承、伸縮継手。

聞き慣れない言葉が並んでいる。

「難しいわね」

「俺にもよくわからない」

「あなた、何のためについてきたの?」

久美子はからかうように言った。

「一人で読むより、二人の方が面白いと思ったから」

何気ない返事だった。

けれど、久美子は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。

修とは長い付き合いだった。

何か困ったことがあると、いつも当たり前のようにそばにいてくれる。

それなのに、二人の関係について、きちんと考えたことはなかった。

「どうした?」

「何でもない」

久美子は視線を本に戻した。

そのとき、一枚の図が目に留まった。

橋のつなぎ目に設けられた、わずかな隙間。

「ねえ、これ、何?」

修が説明を読んだ。

「伸縮継手だって。橋は気温の変化なんかで伸び縮みするから、それを吸収するための仕組みらしい」

「橋って、動くの?」

「少しずつな」

「頑丈に作れば、それでいいわけじゃないのね」

「むしろ、動くことを考えて設計しないと、無理な力がかかる場合があるんだって」

久美子は図を見つめた。

「面白いね」

「何が?」

「変化することを、最初から受け入れているところ」

修は頷いた。

「そうだな」

久美子は、もう一度図を見た。

橋は、いつも同じ状態ではないことを前提に作られている。気温が変われば伸び縮みする。その動きを無理に抑えるのではなく、受け止めるための仕組みがある。

では、自分の教室はどうだろう。

学びたいことが決まっている人。始めようか迷っている人。何かをしたいと思いながら、その何かが見つからない人。

人の気持ちにも、いろいろな状態があるはずなのに。

自分の教室は、そうした人たちを受け止められる場所になっているのだろうか。

久美子はページをめくろうとして、手を止めた。

ふと、数週間前の出来事を思い出した。

教室の前で立ち止まり、講座案内を眺めていた一人の女性。

久美子が声をかけると、女性は申し訳なさそうに笑った。

「何か始めたいとは思っているんですけど、何をしたいのか、自分でもよくわからなくて」

久美子は、その女性に講座一覧を渡した。

「やってみたいものが決まったら、ぜひいらしてください」

女性は丁寧に礼を言い、帰っていった。

それきり、姿を見せていない。

あのとき、自分は何を考えていたのだろう。

講座を決めていない人には、まだ案内できることがない。

そう思っていた。

「修」

「ん?」

「教室って、何をする場所だと思う?」

「何かを習う場所じゃないのか?」

「そうよね」

久美子は頷いた。

「私も、そう思ってた」

「違うのか?」

「わからない。でも……」

しばらく考えて、久美子は言った。

「何かを習いたい人だけじゃなくて、何かを始めたいけれど、何をしたいかわからない人もいるでしょう?」

「ああ」

「その人たちに、私の教室は何をしてあげられるんだろう」

修は答えなかった。

久美子は静かに続けた。

「今までは、どうすれば講座に人が集まるかばかり考えてた。でも、そもそも講座を選ぶ前の人のことを、考えていなかったのかもしれない」

修は本の図を見つめた。

「橋の話とは、だいぶ違うな」

「そうね」

「隙間を作れば教室もうまくいく、なんて話じゃないし」

「うん。それだけでうまくいくわけじゃないものね」

久美子は笑った。

「ただ、変化するものを受け止める仕組みがあるって聞いて、思い出したの。あの女の人のことを」

「それで、新しい講座を作る?」

「ううん。まだ何も決めない」

「珍しいな」

「だって、思いついただけでしょう。正しいかどうかなんて、わからないもの」

修は笑った。

「それもそうだな」

久美子は本を閉じた。

そして、小さな声で言った。

「でも、今までとは違うことを考えてる」

* * *

翌週、久美子は教室の時間割を見直した。

金曜日の夕方に、一時間だけ空きがある。

そこに、講座ではない時間を設けることにした。

絵を描かなくてもいい。

文章を書かなくてもいい。

ただ教室を見学したり、久美子と話したり、作品を眺めたりできる時間。

名前は「何も決めない時間」。

教室の入口に小さな案内を貼り、ホームページにも知らせを掲載した。

最初の金曜日。

訪れた人は、一人もいなかった。

久美子は椅子に座ったまま、時計を見上げた。

午後六時。

結局、誰も来ないまま終わった。

その夜、修から電話があった。

「どうだった?」

「誰も来なかった」

「そうか」

「あなたのせいね」

「俺のせいなのか」

「冗談よ」

二人は笑った。

修が言った。

「もうやめる?」

久美子は少し考えた。

「もう少しだけ続けてみる。たった一回で判断するのも違う気がするから」

「そうだな」

「でもね、修」

「ん?」

「誰も来なかったとしても、それには理由があるはずよね」

「例えば?」

「必要としている人がいないのかもしれないし、そもそも、この時間のことを知らないだけかもしれない。だから、もう少し試してみたいの」

修は電話の向こうで、しばらく黙っていた。

「なるほどな」

「何?」

「いや。思いついただけで決めつけずに、ちゃんと確かめようとするところが、久美子らしいと思って」

「褒めてるの?」

「もちろん」

久美子は少し笑った。

* * *

二週目には、一人の男性が訪れた。

絵画講座に興味はあるものの、自分に絵の才能があるのか不安で、申し込めずにいたという。

「絵なんて、学校を卒業してから一度も描いていないんです」

「最初から上手に描ける必要はありませんよ」

久美子がそう話すと、男性は少し安心した様子だった。

翌週、男性は絵画講座の体験に参加し、その後、正式に申し込んだ。

三週目には、二人の女性がやって来た。

一人は写真を始めたいと話し、もう一人は、ただ教室の雰囲気を知りたかったと話した。

写真に興味があるという女性は、教室に飾られた作品を熱心に眺めていた。

「立派なカメラがないと、難しいですか?」

「最初は、お持ちのスマートフォンでも大丈夫ですよ」

久美子が講座の内容を説明すると、女性は翌週からの写真講座に申し込んだ。

そして四週目。

以前、講座案内を受け取って帰った女性が姿を見せた。

「あのとき案内をいただいたのに、なかなか来られなくて。ごめんなさいね」

久美子は首を振った。

「謝ることなんてありませんよ」

「入口に貼ってあった『何も決めない時間』という案内を見たんです。何を習うか決めていなくても、来ていいんだと思って」

女性は教室の壁に飾られた水彩画を眺めた。

「実は、仕事を辞めてから、毎日何をしたらいいのかわからなくなってしまって。何かを始めたいとは思うんですけど……」

「そうだったんですね」

「だから、こうして見に来られるだけでも、少し気持ちが楽になります」

久美子は、その言葉を静かに聞いていた。

そして、あの日の自分の返答を思い出した。

「やりたいことが決まったら、いらしてください」

あれは、親切な言葉のつもりだった。

けれど、決められないからこそ、誰かと話したかった人もいたのかもしれない。

その日の帰り際、女性は言った。

「次は、絵を描いてみようかしら」

「いつでもどうぞ」

久美子は微笑んだ。

四週間で訪れた人数は、決して多くなかった。

講座への申込みも、まだ二人だけだった。

教室全体の売上も、減少傾向を抜け出したとは言えなかった。

それでも久美子は、この取り組みをもう少し続けてみようと思った。

以前は、講座に申し込む人のことばかり考えていた。

ところが、実際に訪れた人たちの話を聞くと、申し込む前にためらっている理由が、人によって違うことがわかった。

才能への不安。

道具を持っていないことへの心配。

何を始めたいのか、自分でもわからない戸惑い。

どれも、競合の料金表や人気講座のランキングを眺めているだけでは、気づかなかったことだった。

久美子は手帳に、それぞれの言葉を書き留めた。

そして、次の講座案内を作るときには、まずこの手帳を開いてみようと思った。

* * *

秋が深まった頃、修が久しぶりに教室へやって来た。

「最近、忙しそうだな」

「そうでもないわよ」

久美子はコーヒーを二つ用意した。

「でも、前より楽しそうだ」

「そう?」

「ああ」

二人は窓際の席に座った。

夕方の光が、テーブルの上に長い影を落としていた。

「この前、店の棚を一つ変えてみたんだ」

修が言った。

「どんなふうに?」

「今までなら、ジャンルごとに並べるところを、違う分野の本も混ぜてみた」

「ランダムに?」

「完全なランダムじゃない。読む人が思いがけない本に出会えるよう、少し工夫した」

「売れた?」

「まだ、たいして」

久美子は笑った。

「私たち、商売が下手ね」

「そうかもしれない」

修も笑った。

「でも、この間、面白いことがあった」

「何?」

「料理の本を探していた客が、隣に置いてあった植物の本を買っていった」

「へえ」

「食用植物について調べたくなったんだって」

「なるほど」

「その人、店を出るときに言ったんだ。今日は違うものを買うつもりだったんだけどな、って」

久美子は頷いた。

「何だか、わかる気がする」

少しの沈黙があった。

修が、コーヒーカップを見つめながら言った。

「最初に図書館へ誘ったとき、俺は何か役に立つことをしてやりたかったんだと思う」

「そうだったの?」

「困ってる久美子を見て、何か助けになれないかって。でも、経営のことは俺にはよくわからないし」

「それで、くじを引いて本を読むことを?」

「うん。まあ、半分は思いつきだけどな」

久美子は笑った。

「ありがとう」

「礼を言われるほどのことじゃない」

「でも、あの日、図書館に行かなかったら、私はまだ同じ資料を読んでいたかもしれない」

「別のきっかけで気づいたかもしれないだろう」

「そうね」

久美子は窓の外を見た。

「でも、不思議ね」

「何が?」

「最初に読んだ陶磁器の本も、渡り鳥の本も、何の役にも立たなかったと思ってたの」

「実際、あのときは何も思いつかなかったな」

「でもね、今は少し違う気がする」

「どういうこと?」

「自分に関係のないものを、すぐに切り捨てなくなったの」

修は黙って聞いていた。

「この前もね、『何も決めない時間』に初めて来た人が、昔、植物を育てるのが好きだったって話してくれたの。以前の私なら、『そうなんですね』で会話を終えていたと思う」

「今は?」

「どんな植物が好きだったんですか、って聞いてみた。そうしたら、その人、急に楽しそうに話し始めてね」

「それで?」

「それだけ」

「それだけ?」

「ええ。何か新しい講座を思いついたわけでもないし、申込みにつながったわけでもない。でも、その人のことを少し知ることができた」

修は微笑んだ。

「いいじゃないか」

「そうね」

久美子はコーヒーを一口飲んだ。

「前より、知らないことを面白がれるようになった気がする」

* * *

帰り際、修が鞄から一冊の本を取り出した。

「そうだ。これ、持ってきた」

表紙には、古い町並みの写真があった。

「何の本?」

「古い町についての本らしいけど、まだ読んでない」

久美子は目を丸くした。

「自分のお店の本なのに?」

「今日は中身を確かめずに選んでみたんだ」

「それを私に?」

「何かの役に立つかどうかなんて気にせずに、読んでみてほしくて」

久美子は本を受け取り、机の端に置いた。

「ねえ、修」

「何?」

「今度は私が、修のために一冊選んでみようか」

「どんな本?」

「それは、選んでからのお楽しみ」

修は笑った。

久美子は少しためらってから言った。

「それで、次の日曜日なんだけど……」

「図書館?」

「ううん」

「じゃあ、どこ?」

「別に、どこでもいいの」

修は不思議そうな顔をした。

久美子は続けた。

「いつも本ばかり読んでるでしょう。たまには、何も決めずに出かけてみない?」

「何も決めずに?」

「ええ。電車に乗って、降りたくなった駅で降りてみるとか」

「ずいぶん行き当たりばったりだな」

「嫌?」

修は少し考えた。

「いや。面白そうだ」

その答えを聞いて、久美子は安心した。

長い付き合いだった。

学生時代には、よく二人で寄り道をした。

知らない喫茶店に入ったり、目的もなく遠回りをしたり。

いつからだろう。

大人になって、何をするにも目的や理由を考えるようになったのは。

仕事も、買い物も、人との約束も。

時間を無駄にしないことばかり考えていた。

けれど、あの頃の寄り道を、無駄だったとは思わない。

むしろ、今でも覚えているのは、そんな時間の方だった。

「じゃあ、日曜日」

修が言った。

「ええ」

「どこへ行くかは、決めないんだな」

「決めない」

「何があるかわからないぞ」

「そうね」

久美子は微笑んだ。

「でも、それがいいの」

修が帰ったあと、久美子は教室の片づけを始めた。

机の上には、今日も市場調査の資料がある。

明日になれば、また売上を確認し、講座の内容を見直し、必要な情報を調べるだろう。

それは大切な仕事だった。

これからも、変わらない。

久美子は、修から受け取った本をもう一度手に取った。

最初のページを開こうとして、ふと手を止めた。

表紙に写る、知らない町の石畳。

その写真を眺めているうちに、学生時代、修と二人で道に迷った日のことを思い出した。

地図を持たずに歩き回り、ようやく見つけた小さな喫茶店。

あの店の名前は、何だっただろう。

二人で飲んだコーヒーは、どんな味だっただろう。

久美子は思わず笑った。

そういえば、日曜日にどこへ行くか、まだ決めていない。

何を話すかも、何をするかも。

もしかしたら、ただ歩いて、何も見つからずに帰ってくるだけかもしれない。

それでも、悪くないと思った。

久美子は本を閉じ、鞄にしまった。

教室の明かりを消し、入口の鍵をかける。

外には、少し冷たい秋の風が吹いていた。

久美子は駅へ向かって歩き始めた。

いつもの角を曲がろうとして、ふと足を止めた。

少し遠回りになるけれど、まだ歩いたことのない道があった。

久美子は、そちらへ足を向けた。

日曜日が、少し楽しみだった。


了





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