2、「義人」韓国の深情と適当さ~「教育大国」の底力と進取の気性➀
「韓国文化」~「辛味」、コチュジャン、「錦上添花」(スイカに砂糖をかける)、オンドル。感情を剥き出しにする強い個性を表現し、自己を抑制しない気質。絶対的イデオロギーが支配する「イデオロギー社会」(儒教、血縁主義)。土の文化。奇数文化。半島文化。「ウリナラ」(我々の国)思想。「教える」文化。留学のために「教育移民」も辞さない教育熱。移民後、3年で家が建たないと無能とされる勤勉さと進取の気性。
「日本人は『韓国系美人がいちばん美しい!』とまるで口癖のように言う。顔はやっぱり韓国女性が美しいと称賛するのだ。しかしこれは何も韓国人をおだてたり、耳に心地よく響かせようとするお世辞ではなく、心底から出てくる言葉のようだ。・・・
日本人には普遍的に韓国美人がいちばん美しいという定評がある。肌にしても韓国系女性が東洋のみならず世界的にもいちばん質が高いという、神話ならぬ神話が日本社会の中に広く知れ渡っている。ところがわたしは、きめ細やかな肌が白く柔らかくという話には納得がいくが、韓国美人がもっとも美しいという話は必ずしも承認できるわけではない。・・・
まずわたしは韓国女性がきれいに見えるのは、それだけ美容に神経を使い、化粧を一所懸命にするからだと思う。
日本の伝統的な芸妓や歌舞伎役者の厚くべったりと白塗りをしたかのような顔を見て、日本女性の化粧も濃いのだろうと錯覚することが多いが、実際日本女性は厚化粧を嫌っている。厚化粧が好きなのはむしろ韓国女性のほうだ。韓国女性の化粧への情熱は、東洋三国の中ではダントツだ。わたしはこんにちまで幼い少女から六十代以上のお婆さんに至るまで、あるいは家庭の主婦からOLまで、おびただしい数の韓国女性を見てきた。その誰もが一様にたいへんな情熱を傾けることが最大の特徴である。
いわば韓国社会には『美人』、つまり顔がきれいであることを非常に意識して、美人であることを一つの価値として高く評価してくれる社会的雰囲気があるようだ。日本にもそのような社会的雰囲気があるにはあるが、きわめて微弱である。
韓国には『女は顔がきれいでなければならない』という観念すらあるほどだ。それゆえ女性であれば誰もが化粧を怠ることなく、見かけを取り繕うのに特別な情熱を傾けるわけだ。何としてでもまずい部分を隠し、秀でた部分を目立たせようとする努力の仕掛けが、まさしく濃い化粧術だといえる。わたしはこれを文字通り『濃粧型』と名付けたい。
これと対照的に日本は『淡粧型』となる。化粧をするかしないかぐらいにさらりとする。まずい部分を特別に化粧で覆い隠したり、秀でた部分を目立たせようとする努力はあまりしないようだ。
韓国女性は容貌に対する弱点を隠しとおせないときは、必ず整形手術をするという話まである。ブスはきれいに見せようと整形手術をして、美人はさらに個性溢れる容貌へと変身するために、何の躊躇もなく整形外科のもとに駆け込む。」
(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)
「中国と韓国の母親たちは子供の勉強、学力に対する執着度が相当高く、いつでもどこでも『一等』をとらねばならず、他人に負けてはならないという『第一主義』、絶対的期待が強い。反面、日本の母親たちは学力や勉強よりも日常生活の習慣、とくに公衆道徳、礼儀礼節、独立能力の育成に力を注ぐといえる。」
(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)
「日本語のあいさつに「いいお天気ですねえ」というのがありますが、これも韓国語にはありません。日本は雨が非常に多く、365日のうちで東京と大阪で1mm以上の雨が降った日を数えたら、年間191日もあったと新聞にありました。言ってみれば、1年の半分以上が雨です。こんな気候の日本ですから、晴れる日が待ち遠しく、それが「いいお天気ですね」というあいさつになるのだと思います。
私がNHKの国際局でアナウンサーをしていたころ、よく地方との中継放送がありました、「それではここで広島につないでみましょう」と言って広島が出ると、横にいるディレクターが「天気を聞け、天気を聞け」とせかします。「東京は肌寒いお天気ですが、広島はどうですか」と聞くと、「広島はぽかぽかして暖かいですよ」と返事が返ってきて、おさまるわけです。次にソウルとの中継になるのですが、またディレクターが「天気を聞け」と言います。「お天気はどうですか」「ソウルの空は青く晴れ渡っています」とのやりとりの後、さらにリスナーとつながると、ディレクターがまた「天気を聞け」と言うのです。日本人が聞いている分には問題ないのですが、韓国人には異様に聞こえるのでしょう。後から手紙が来ます。「日本人はどうしてそんなに天気のことを気にするのですか」。
韓国人が天気を人に聞くときは「いつ晴れるか」ではなく「いつ雨が降るか」が気になって聞くのです。年間降水量が日本の半分の韓国では、この聞き方が自然なのです。一方、晴れる日が待ち遠しい日本では、「晴れ」はすばらしいことなので、晴れた日を表す言葉が実に豊富です。「日本晴れ」に始まって、「五月晴れ」「秋晴れ」「夕晴れ」に「天晴(あっぱれ)」。また、「晴れ晴れとした表情」とか「晴れて2人は結ばれた」などという表現もあり、晴れることが最高の幸福を表しているかのようです。こういう表現は、韓国語には見られません。日本独特の気候から生まれた言葉だと思います。
気候といえば、日本人はあいさつや生活だけでなく、その性格まで天気から実に大きな影響を受けているようです。これもNHKにいたときのことですが、解説番組で、日本人は世界一辛抱強い国民ではないかという話がありました。信号が待ちきれずに、横の信号が黄色になったらもう渡りはじめる人もいるので、私はそのとおりだなと思いながら、これを韓国語に翻訳しました。
そのころ、駅までバスで20分ほどのところに引っ越したのですが、冬の寒い日にバスを待っていても、なかなか来ないのです。そんなとき、私はイライラして、すぐにタクシーに乗って帰ったりしたものです。しかし、他の人たちをよく見てみると、みんな黙ってじーっとバスを待っています。韓国人に比べれば、はるかに辛抱強い。そのときから、日本人の辛抱強さに目をやり始めたところ、反対に日本人は世界一せっかちな民族ではないかとさえ思うようになりました。
日本では子供のときから、我慢しろ、辛抱しろと育てられ、しつけられることもあって、我慢するということが日本人の基本になっているように思いますが、これは、しつけとか教育と言う以前に、私は気候の影響だと思っています。たとえば梅雨は日本人には避けられないわけで、エアコンなどがなかったころは、窓を開けて、うちわで扇(あお)ぐぐらいしかなかったわけです。窓を開けても風が吹いてくれなければ、あきらめてじっと我慢するしかありません。中には、梅雨時になったら雨戸を閉めて、電気をつけて本を読むのが楽しいという人もいるわけです。だから我慢強さは韓国人には真似できないというのが私の持論です。
韓国ではどうかというと、どんなに暑いときでも、日向(ひなた)から逃れて木陰や家の中に入ると涼しいのです。逃げ場があるわけです。それで韓国人は何かにつけて逃げ場を求めながらキョロキョロと生活しているのです。
(金裕鴻『韓国がわかる。ハングルは楽しい!』)
「東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
石川啄木のこの短歌は、日本文学をよく知らない韓国人にも広く知られています。しかも反日感情の強い人々にも愛誦されているものです。あながち帝国主義的な侵略性が内包されていない、という理由からだけではなさそうです。島流しにあったような、ひとりぼっちの悲しみは、なにも日本人特有の感情とはいえないでしょう。啄木のセンチメンタリズムは、日本人よりはむしろ国を喪った植民地時代の韓国人に大いにアピールする力があったのかもしれません。
それなのに、啄木のこの短歌は依然として玄界灘ほどの距離があり、そのため絶対に韓国の詩にはなりえない日本人の詩という感じがします。三十一音のこの短い歌のなかには、日本特有の語彙や民族的な差異を感じさせるなにか特別な歴史的・社会的背景は見受けられません。しいていうなら、島国の地理的な特性を間接的にあらわしたその歌の舞台を指摘もできましょうが、なにも小島は日本だけのものとはいえません。韓国も半島ですから、そういう小島は無数にあり、すこしも目新しい歌の舞台ではありません。
とすると、いったい何がこの歌を日本的なものと感じさせるのでしょうか。すでにのべたように、それは単語の持つ個々の意味や、それが表現している表面的な情緒の差異から来るものではありません。この歌を形成している構造、もうすこし直截にいえば、構文上の特性のため、といえましょう。その証拠に啄木のこの歌を韓国語に訳すときに、最大の難点となるのは、「の」が重複している点です。
「東海の小島の磯の白砂に…」のくだりには、なんと「の」がサンドイッチのように三重に重なっています。四つの名詞が「の」の助詞だけで連結されている、そういう奇怪の文章は、韓国の場合、散文にしても詩にしても、どこにも見あたりません。ですからこの短歌を韓国語に訳すには、その構文形式そのものを変えないわけにはいかないのです。そうなると、それはもはや詩ではなくなります。
これまで韓国語と日本語の統辞構造はほぼ同じだから、別に問題にならないと考えられてきました。ただ両国の言語はその語彙が異なるだけで、言語の特色もおもにこの点から考察されてきただけでした。つまり、単語さえ置きかえれば、日本語は韓国語になり、韓国語は日本語になる。その点、同じ外国語でも、英語のような印欧語や中国語に対するときとは違ってくる、ということです。しかし、啄木の歌に見られるように、個々の語彙よりはそれをつなぐ構文上の形態が、ときおり違った特性を示していることに注目しなければなりません。
ひところ、日本語をよく知らぬ韓国の若者の間で流行ったジョークのひとつにも、そういう点を直感的に表現したものがあります。日本の時計はいくら精巧に作っても、韓国製のよりいつも数分ずつ遅れるというのが、それです。韓国製は「チクタク、チクタク」と時を刻むのに、日本製は「チクのタクの、チクのタクの」といっているからだというのです。
この冗談は、日本人が片言の韓国語を話すとき、語と語の間に韓国語には不必要な「の」をよくはさむことから来たものですけれど、韓国語と日本語の差異を、たんなる語彙のレベルでなく統辞的な特徴として捉えた、大衆的な直感力の産物であるともいえます。その構文上の違いを端的に示しているのが、この「の」の助詞法なのです。ですから、「東海の……」の啄木の短歌を知らない子供たちの間でも、韓国語に「の」をくっつけて話すだけで、それが日本語のマネとして通用しているほどです。
実証的にいってそうです。日本語では「ほしひかり」とはいいません。「ほしのひかり」であり、「ホタルのひかり」であり、「むしのこえ」です。しかし、韓国語では「별(ビョル、星)의(ウィ、の)빛(ピッ、光)」とは絶対にいわず「の(의)」をとってただ「ホシヒカリ(별빛)」といいます。「ホタルのひかり」「むしのこえ」にしても同様です。」
(李御寧『「縮み」志向の日本人』)