『名前の唄』を書いている時に起きたこと

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コラム
今回は、「『名前の唄』を書いている時に起きたこと」についてお話してみたいと思います。

前回の記事で、私は「名前の唄は、名前の声を聴くことから始まる」と書きました。

毎日さまざまな名前と向き合っていますが、いつも感じるのは、一つとして同じ名前はないということです。それは例え漢字が同じものであっても、変わってくるのです。

それはまるで、一人ひとりの人と出会うことに似ています。

名前の唄を聴き、言葉を探し、詩へと編み上げていく時間は、その名前と仲良くなっていく時間だったのだと、作品をお渡しする時に思います。

不思議なことに、作品をお渡しする頃には、ご本人より、その名前と仲良くなってしまったと実感するかのように、名前の想いを少しでも伝えたいと思ってしまうからです。それは、子供の名前の注文をしてくれた名付けの本人である親御さんにでさえ、名前が名付けのタイミングで親御さんの元に来ることになったものとして話したくなるからです。

その名前がどんな景色を抱き、どんな願いを持ち、どのように持ち主に寄り添ってきたのか。

名前の声に耳を澄ませ、作品の形に出来上がった時に、自然とこれだという確信を持てているのです。
それは、名前がちゃんと知っていて、名前の唄が教えてくれた景色に確かな信用をもって、詩を書くからです。
名前はその人が今いる場所も、これから向かう場所も。
その歩みを、ずっと見守りながら共に歩いている道も、知っているからです。

私は詩を書いた日付や、生まれた日などを作品の中に印として刻みます。
けれどカードとして仕上げる過程で、日付や画像が意図しないものに変わっていることがあるのです。
もちろん、操作ミスやシステム上の問題であることもありますが、その場合は、どこかのタイミングで気付くのです。でも、時折ミスがそのままになっていたり、何度の私の指示とは全く違うことが起きたりすることがあります。
けれど、それらも後になって確かめてみると、その偶然が、その方にとって大切な意味を持つ日付だったり、その時の状況を象徴するような画像だったりすることがあります。
心が深く傷ついていた方への作品の日付が、その方が最も辛かった日になっていたこと。
生活もままならない健康上の問題の最中にいる方に、まったく関係のないはずの「命の誕生」を象徴するデザインが何度も指示していないのに現れたこと。

偶然と言えば偶然のミスと言えるかもしれません。
けれど私は、そのミスが、彼らを救いたいと思う名前や高次の働きを思わずにはいられず、そのことに静かに感謝を伝え、救いのエネルギーをその方々に届けるように想いを込めます。
名前が伝えたいこと、名前を通して彼らを見守る存在が伝えたいこと。
その方自身に見せたかった景色があったのだと。

ただ名前に耳を澄ませ続けた先で出会う、小さな驚き。
名前の唄を書いていると見える、この世の偶然に見える必然の奇跡に触れることで、名前を持つ私たちへの祝福に出会える幸せ。

名前は単なる記号ではなく、その人の人生に寄り添い続ける存在なのだということを。
私は、名前の響きを言葉にしながら経験することができています。

名前は呼ばれるためだけにあるのではなく、持ち主が迷った時も、喜びに満ちた時も、何気ない日常の踏ん張りや、ほっと一息をついた時の我に返る瞬間などにも、ずっとそばで共に歩みながら、私たちを守ってくれるものなんだと。生まれた瞬間から、亡くなる日まで、ずっと一緒にいる唯一の存在なんだと、自然に納得できるほどの光に導かれながら、詞を編んでいます。

だから私は、今日もまた名前に声に耳を澄ませ、名前が見せてくれる景色を詞にし続けているのです。

次回は、「『名前の唄』を受け取った方々に起きたこと」、変化についてお話したいと思います。
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